未来塾通信28


マクドナルド化した塾産業ー塾教師に実力はいらないー

■大学受験に失敗して予備校に通った1970年代前半は、難関大学の合格者の半数以上が浪人生という時代であった。私が通った京都の近畿予備校は入学倍率が17倍という予備校だったが、高校ではけっして見ることのなかった、誠実で知的な風貌をした若い京都大学の助手や大学を退官して数学を教える老教授に出会った。

当時、時給の高さを誇らしげに吹聴する客寄せパンダ的な予備校講師もいたが、淡々と授業をこなす個性派の実力講師もいた。そういった教師たちが授業の合間に話す脱線話の中に、人間性を垣間見て勇気づけられもした。浪人もまんざら捨てたものではないと思ったものだ。

予備校のそばにあった同志社大学の学生食堂で昼食をとりながら、友人は、システム化されていない塾や予備校にこそ本当の学びがあると主張した。私は彼の主張にそのときは賛同した。しかし、しょせん塾や予備校は、上り坂の日本経済および大学の入学定員と18歳人口とのギャップに下支えされて咲いたあだ花だと思う。あだ花も時には息を呑むほどに美しい瞬間がある。日陰に咲く野の花の飾らない美しさに感動することもある。今思えば、私が浪人時代に経験したことはそういうことだったのだ。予備校や塾が知的な産業でありえた最後の時期だったのかもしれない。

 そして塾を始めた1980年代、予備校や塾は、知的レベルはかなり低下したものの、制度疲労を起こした公教育の間隙をぬって発展し続けていた。「生徒の駿台、講師の代ゼミ、机の河合塾」と揶揄されたのもこのころである。しかし、1991年、バブルの崩壊によって日本経済は一気に失速する。それに少子化圧力が加わる。塾や予備校が知的産業から、なりふりかまわぬ収益至上主義の産業へと急転回するのは必然的な流れであった。
 
 塾産業が収益を上げるためにとった手段は、一にも二にも人件費をカットすることである。正社員をなるべく少なくし、ほとんどをアルバイトの大学生でまかない、教材をデータベース化し、マニュアル通りの授業をさせる。高校入試レベルで言えば、「やることは決まっているので、生徒にやらせるかどうか」だけがポイントとなる。したがって、講師の採用にあたっては、経験よりも、若くて(人件費がかからなくてすむ)声が大きく(回答、解法を読み上げなければならない)元気であること(長時間拘束され雑務をこなさなければならない)が重視される。

私の知っているある塾の経営者は「講師は採用してから、生徒と一緒に勉強させればいいのですよ」と言い放った。現代の塾経営においては、講師に教科を教える実力はいらないのである。しかし、あることをうまく教えるには、その内容について数等高度な理解力を持っていることが要求されるはずである。
 
 一方、大学入試対策がメインの大手予備校は、人件費のかかる優秀な講師をリストラし、残った数名の講師の授業を録画して全国のフランチャイズ塾に配信して収益を上げるシステムに切り替えて生き残りをはかる。高校部で優秀な講師を確保できない地方の塾のほとんどは、衛星授業やDVDを使った映像授業に頼るしかなく、高いロイヤルティーを払いフランチャイズに加盟する。そして、来た生徒にDVDを見せるだけの中継地点となる。要するに、ピンはね体制の完成である。TSUTAYAの廉価版だと思えばよい。

何もかもをわかりやすくして、何もかもを可愛らしくラッピングして生徒=消費者に差し出すことで利潤を得ようとする。生徒と親の不安につけこみ、「うちの商品を買わないと合格しませんよ」とさらに不安をあおる。その姿勢が、子ども達の学力低下を引き起こした最大の原因なのだと私は早くから指摘してきた。

しかし、こういった姿勢が生徒の学ぶ意欲や好奇心、探究心をどれだけだめにしてきたか、まだほとんどの親は気づいていない。教師が自ら生徒に教え、生徒の知的な成長を喜ぶ感性があれば、ビデオオショップまがいのことはできないはずだが、そんなことは意に介さないのである。そもそも、こういった塾の経営者は、何かうまい儲け口はないかと探し、初期投資が少なくてすむ塾産業に目をつけただけなのだ。そして不況と少子化を乗り切るために、怪しい経営コンサルタントにすすめられて、ユニクロやマクドナルドの業務形態を真似たのである。
 
 ユニクロやマクドナルドは売る商品がはっきりしている。消費者の能力や適性や将来の夢を考慮に入れる必要などない。いや、入れてはならない。ここが塾産業と本質的に違う点である。こういった企業の経営トップは、原材料の仕入れ、製品化、流通に伴うコストおよび人件費を削減し、不況下の消費者マインドを読み、自分たちの決断したことをいかに効率よくスピーディーに画一性(同じ味・同じ品質)を保ったままで多店舗展開できるかを考える。採算性と画一性は車の両輪である。地域や店によってハンバーガーの味や衣類の生地、価格が違うことは許されない。店員は、マニュアルで指示されたとおりのことを寸分違わずやらなければならない。店によってレイアウトを変え、ハンバーガーの味を変えることは許されない。あるいは独自の販売方法やメニューを打ち出したりすることももちろんできない。顧客と接する末端の店に裁量権はないのである。これが国境を越えて多店舗展開する企業の宿命である。

 しかし、塾産業がユニクロやマクドナルドの経営方針をそのまま手本にすることは本来不可能なのである。なぜなら、塾が相手にする生徒は未完成の人格であり、個々の能力や適性は異なるからである。しかも彼らは1週間で性格が変わってしまうくらいデリケートな思春期という時期の真只中にいる。消費者という範疇でくくり、「受験に特化した商品」を売りつけるには無理があるのである。

こういった本質的な違いがあるにもかかわらず、塾産業は収益を上げることを至上命題としているため、一律下降的な画一性だけははずせない。したがって、生徒とじかに接する末端の講師が、生徒の学力をつけるために独自の教材を使い、マニュアルにないユニークな授業をすれば、企業の画一性を脅かし、ひいてはその存続すら危うくしかねないのだから、即日クビになるのは明白である。

現に私はこういった理由でクビになった人間を知っている。「お前、勘違いするなよ」とひとこと言われて終わりだったとのことである。確かに彼はこの種の企業の本質を勘違いしていた。塾の最終目標は生徒に本物の学力をつけることではなく、「自社の教材を使って」合格させ、収益を伸ばすことなのだから。彼は学校の教師になるべきだったのだ。かくして塾業界はもっとも離職率の高い職場となり、人材が育たず、過重労働低賃金の上に転職も困難な業種として認知されることとなった。塾業界が知的産業ではなくなった所以である。

 それでも塾産業はなくならない。経営統合や吸収合併を繰り返し生き残っていくだろう。それを支える社会心理的な構造の分析は、未来塾通信29『おどろくべき教育格差?中学受験の意味するもの?』に譲りたい。