未来塾通信29


驚くべき教育格差ー中学受験の意味するものー

■21世紀になり、私たちは市場原理の中で働き、消費者として暮らすことにも、競争と対立の中に身を置きつづけることに対しても、急速に厭きてきたような気がする。しかし、この世界から離脱することもできない。今までどおり、情報洪水にさらされ、絶えず他者と比較されながら、市場経済の中でよき市民として暮らすしかない。今の私たちの生き方そのものが、私たちの世界の息苦しさを支えていることに薄々気づきながらも、その内部に身を置くしかない。表面上の穏やかさと洗練されたライフスタイルの裏に、不機嫌さと、あらゆるものを投げ出したくなる衝動を隠して、誰もが自分の仕事や暮らしを守ろうとしている。

 私たちの世界の息苦しさや虚しさに対して、これまで価値とされてきた近代的理念とその派生物、たとえば、自由、競争、マーケット、ビジネスモデル、付加価値、選択と集中、差別化、イメージ戦略といったことばで立ち向かうことはできない。なぜなら、こういったことばを生き方の原理として据えれば据えるほど、近代的世界が生み出している矛盾を、逆に支えることになってしまうからだ。私たちはこうして虚しさからの出口を失った。だからこの時代は刹那的な満足しか信じない人々を生み出す。あるいは自分の思い込みが作り出した目標という幻想を真実だと信じることによって、そこに自分の生の実感を見出そうとする人々が現れてくる。

 中学受験をさせる親(中学受験は親の受験だと言われている)は、自分の思い込みが作り出した目標を子どもに課し、受験を子どもとの思い出作り・共同作業だと位置づける。そこに親自身の行動を重ねあわせることによって生の実感を見出そうとする。もちろん、子どもの将来を考えるがゆえの親の選択を否定する権利は誰にもない。ただ、人間は自分のやっていることに価値を見出そうとする余り、冷静な判断を失ってしまいがちになるものだ。

 社会的なステイタスを象徴的に示すある上昇システムが目の前に用意されていて、多少の経済的な余裕さえあれば、人は一般にその中身と自分の適性や能力が一致するかどうかなどをたいして吟味することなく、その上昇システムにしたがって次々に階段を上ろうとする。この階段を上りきってその恩恵に浴する人はごく一部であるにもかかわらず、その事実と向き合うことはしない。問題は、現在の上昇システムが社会の実相からかけ離れて抽象的であるため、普通の親子をして、自分に合った人生選択とは何かをよく考え抜くことをさせないという点なのだ。以下、具体的な事実を挙げて述べてみよう。

 今私の手元に東京大学や国立大学医学部に多数の合格者を出す都内の私立中高一貫校の入試問題がある。たとえば女子中学の最上位校である桜蔭中学の国語の問題を見てみよう。2006年の1番の現代文の問題は、平均よりも上位の国立大学二次試験で出題された問題と同じである。同一筆者(高階秀爾)同一著書(『日本美術を見る眼』)で、過去複数の大学が出題している文章である。しかも設問のレベルも、制限時間に対する制約も桜蔭中学のほうが厳しい。こういった問題を小学生に解かせるには、小学校の4年生くらいから塾で特殊な教育をしなければならない。塾にかかる費用は3年間で300〜400万以上だと言われている。

ここで私が指摘したいのは早期教育の過激さでもなく、無茶な問題を12歳のこどもに課す残虐ぶりでもない(このことが人間の精神に及ぼす影響については改めて述べたい)。ただ、12歳の段階で、中学受験をする層としない層との間で、絶望的なほどの学力格差が広がっているという事実を指摘したいだけである。都市部の早期教育は、それにかかる費用の高額化と歩調を合わせて、バベルの塔のように学力を高く伸ばしているのである。中学受験対策に膨大な時間とエネルギーを費やしている当の親や子どもたちは、「ゆとり教育」や「学力低下」はどこの世界の話だと思っているにちがいない。

 言うまでもなく、現代の日本では、経済的にゆとりのある親は、最終帰着点である大学入試にいかに有利に働くかということを主軸にして子どもを育てる。学習能力や学習成果の価値が、教育市場を通じて決まるだけでなく資格市場や労働市場とも結びつくようになった社会の酷薄さを本能的に察知しているからである。公立を見捨て、私立中学ブームを起こし、低学年低年齢からの塾通いを一般化させてきたのはまさにこの親たちである。

だがここには、こどもが将来何を学ぶのかという視点はない。この時期の子どもたちは、自らの人生に責任を負うことのできる人格の形成期であるにもかかわらず、その機会自体が親の選択によって奪われる。高校生の塾通いならば、ある程度自分の進路や志向がはっきりとしているが、中学受験のための低年齢化した塾では、同質集団の中で点数、偏差値が乱れ飛ぶ。あるのは点数競争だけである。つまり中学受験をする子ども達とその親は、勉強とは競争のためのものだと完全に思い込まされてしまう(私の住んでいる大分市でも、中学受験対策の塾がある。「勉強させます!しごきます!」「折れたチョークが飛び散ります!さあ、かかってきなさい!」というキャッチフレーズでテレビCMまで流している。いったい、いつの時代の発想であろうか。何のことはない、都市部の過熱する中学受験の廉価版のコピーであり、レベルの低い経営コンサルタントの戦略がみえみえの代物である)。

 こうして競争に勝ち抜き、中学受験に合格した後、子どもたちの学習の質を保証するのは、トップレベルの教授法を持った教師たちであり、6年間で平均600〜700万円の学費(それ以外にも相当な費用が必要となる)を払える親の経済力と学歴メリットによる情報収集能力である(ここが地方の物まね中高一貫校との決定的な違いである)。そして、こういった学校の子どもたちのほとんどは東大や国立大学医学部を受験し合格する。つまり、東大や国立大学医学部、慶応大学をはじめとする難関私立大学へのパスポートは12歳の段階でほぼ配り終えられているのである。残りのパスポートを地方の高校生が手に入れようとすれば、公立トップ校で上位5%に入るしかない。

私が塾を始めた1980年代は、学力格差がそれほど拡大しておらず、逆転の余地もあったが、90年代を通じて早期教育が貫徹されるにつれて、学力競争は「負け」が早くから確定されるようになった。そして一度負けが確定すると、勉強は序列と格付けのためだけに機能しているので、子どもたちの多くは早々とこの競争から撤退していく。 さらに、少子化によって競争的な状況が緩和されると、まだ競争が残存している上位層でのみ局地戦が繰り広げられ、中下位層では続々と競争の旗が降ろされていく。勉強=競争である以上、競争のないところから学びは次々と消失していく。子どもたちが、勉強とは順位を競う競争だと認識していれば、競争から落ちた瞬間に勉強から離脱するのは当然である。結局、日本という国は、勉強を単に受験の成果とだけ結び付けてしまったために、受験をしないなら勉強しないという壮大な無気力空間を構築してしまったのである。

 思えば、日本の戦後教育は、学ぶことそのものを求めてきたのではなく、高度経済成長と歩調を合わせるようにして、競争することだけを求めてきた。競争の最終帰着点である大学入試は、こどもの学力そのものに関心を払ったことはなく、単にこどもを序列化してきたに過ぎない。入試の得点で上位者から合格させてきただけである。大学で学ぶためには最低限どれくらいの「学力」が必要なのかということに関して、日本には絶対的な評価基準がないのである。その結果、日本では、中学校程度の基礎的な知識すら持っていなくても大卒学歴は得られるようになり、歯止めの利かない学力低下が進行するようになったのである。ヨーロッパの多くの国では、大学入学の選抜基準となる資格認定試験があるのと好対照をなしている。

 『分数ができない大学生』の著者である慶応大学経済学部の戸瀬信之教授の主張が錯誤にあふれ、滑稽きわまりないのも、この間の事情を全く認識していないからだ。大学の教員が、入学してきた大学生に問題を感じるならば、入学後教育と試験制度を見直せばよい。彼らが具体的にやらなければならないことは実に単純明快である。慶応大学経済学部の入試では数学を必須科目にする旨、教授会が決議をすればいいだけのことである。ところが、彼らは自分たちのやるべき最低限のことすらせずに、下位の教育機関に対して「子どもたちを、もっと、ちゃんと教育しろ!」と叫んで、大学自身の失敗の責任を高校や中学に転嫁したのである。「ゆとり教育は日本を滅ぼす!」などと、何を大げさに嘆いて見せる必要があろうか。

(2011年、慶応大学はセンター試験から離脱することを発表した。私の批判が聞こえたわけではあるまいが、大学内部ではおそらく経営側と大学本来の目的を見失うべきではないと主張する側との間で、侃侃諤々の議論が交わされたはずである。慶応大学の決断に拍手を送りたいところだが、遅きに失した感がある。そもそも自分の大学の学生を選抜するのに、自分たちで問題を作らず、マーク式のセンター試験に委ねるのはあまりに安易ではないだろうか。学生との最も重要な接点である入試を外注している大学に、今の学生を他律的だと批判する資格はない。若者は大人が育てたように育つ。センター試験の得点だけで合否を決める多くの大学は、どのような学生が欲しいのかを真摯に考える機会を自ら放棄し、問題作成能力のないことを世間に向かってアピールしているのだ。)

 21世紀に入って以降、勉強は一部の資産家の占有物になりつつある。ちょっと熱心に勉強すればすぐに成績が伸びた70年〜80年代的風景と、勉強しても成果=序列が上がらない21世紀的風景は全く異なる。現代では、親の商売を継ぎでもしない限り、所得は学歴に左右され、当の学歴取得競争は家庭環境とその資産に大きく左右される。しかもその資産には家庭の文化的資産が繰りこまれる事態にまでなっている。受験勉強のように学力が一元的なモノサシで示され、それに到達する手段もわかりやすかった時代に比べ、「学習能力そのものを高める学習」は、目標も評価基準も曖昧で多元的になり、そこに到達する方法もわかりにくい。こういった学習ほど家庭の文化的環境の影響を受けやすいのである。 

高度に発達した文化・情報資本主義社会の中で、家庭の資産や文化力まで含めてあらゆるものがシャッフルされ、人生の早い段階で勝敗が決するのを、競争社会の必然的な結果だとして多くの人は受け入れることができるだろうか。突然、自分の努力ではどうしようもないところで勝敗が決まる教育という市場で、個人として競争に駆り立てられたら、そこに精神の変調や荒れが出現しても当然ではないか。しかも、教育競争から早めに降りざるを得なかった子どもたちほど、学習機会から遠ざけられ、本来持っていた学習能力を枯渇させてしまう境遇に置かれる可能性が極めて高いのである。

 教育格差は所得格差を生み出し、所得格差は地域間格差を生み出す。かくして、日本社会は階層分化が進み、政治は混乱し、人々の心は荒廃し、治安は悪化の一途をたどる。競争に勝利して幸せな生活を営んでいた一家が、社会の底辺に吹き寄せられた人間の凶刃に倒れるといった性質の事件が頻々として起こらないと誰が断言できようか。人間は他者や地域共同体の支えなくして生存できない生き物である。自分だけが、自分の家族だけが幸せでいられることなどあり得ないのである。教育格差社会を超えるための処方箋は次回以降に譲りたい。