未来塾通信66



一寸の虫にも五分の魂


■「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があります。辞書的に定義すれば「どんなに小さく弱いものにも、それなりの魂や主張がある。小さくてもあなどってはならないことのたとえ」ということになります。
 

生意気盛りのころ、母親を否定するようなひどい言葉を投げつけたことがありました。そのとき、母は悲しそうな顔をして、この言葉を発しました。ぼそりと独り言のようにつぶやかれたこの言葉は、私の心に刺さり、小さくなった母親になんという言葉を浴びせたのだろうと、情けない気持ちで一杯になりました。寸鉄人を刺すと言います。私にとってはまさにこの言葉がそれだったのです。
 

塾の教師は社会の中では「一寸の虫」にすぎません。それでも「五分の魂」を持っています。その「五分の魂」を書く場所がこのブログなのです。書き始めて一年半が経ちます。内容はいろいろですが、意に反して、どうしても政治的な話題が多くなります。私は政治的な人間ではありませんが、政治に無関心ではいられないのです。
 

たとえば、「何のために勉強するのですか」という問いを考えてみて下さい。さまざまな答えがあるでしょう。「社会で影響力を行使できる地位につくため」「いい大学を出て、大企業で働き、いい暮らしをするため」「幸せになるため」等々。
 

ところが、この答えの中にある「影響力を行使できる地位」「社会」「いい大学」「大企業」「いい暮らし」「幸せ」はすべて政治と関係しています。私たちの労働環境も、若い人の将来も、老後の生活もすべて政治とダイレクトにつながっているのです。
 

私はこれまで、自分の思想信条は封印してきました。塾教師の仕事は、一枚の正確なカードを手渡すことだと考えていたからです。しかし、考えてみれば、塾教師が正確なカードを手渡すのは基本的にあたりまえのことです。もちろん、それで生活の糧を得てきたのですから、そのことを軽んじるつもりはありません。
 

ただ、社会のいわば辺境というか、異端視されるような場所に長い間身を置いていると、多くの人が疑いもせず受け入れている価値が、誰によって作られ、誰の犠牲の上に成り立っているのかが分かってきます。それは本当に人生をかけるに値するのかという疑問がわいてくるのです。
 

ひょっとすると、そういう場所で培ったものを翻訳し、社会に伝えていくことは意味があるのではないか、つまり、取るに足らないものでも、ある分野を徹底的に掘り下げていけば、そこには世界全体のゆがみが反映されているのではないか、ゆがみを正すヒントもあるのではないか、と思うに至ったのです。
 

塾の教師は、社会に対して直接影響力を行使できる職業ではありません。まさに、「一寸の虫」です。そんな人間が体制批判をすれば、塾の本分をわきまえろとか、たかが塾教師のくせに、と非難されるでしょう。
 

しかし、私は自分を欺きたくないのです。社会と隔絶した場所で、ただ受験に役立つ知識だけを教えることなどできません。世の中のすべての事柄はつながっています。お互いに影響し合って、何が原因で何が結果かわからないほどです。
 

そんな中で、私が若い人たちに伝えたいことは、自分はどんな人間なのか、自分が今立っているこの世界はどんな場所なのか、そこで生きていくために必要なものは何なのか、という問いを生きる方法です。
 

それは情報ではなく、生きている中で感じている、世界との折り合いの悪さを言葉にしていくための技術のようなものです。もちろん、私は思考すべきことの結論を知っているわけではありません。しかし、書物の力を創造的に活用すれば、答えは見つかる、答えはある、という確信をもっています。
 

こんなことを考えるきっかけになったのは、電通の新入社員で、2015年に過労自殺した高橋まつりさん(当時24歳)のことがあったからです。
 

東大を出て電通に就職というコースは、世間から見れば羨ましい人生を歩んでいるように見えます。しかし、まつりさんは自殺しました。
 

今年の11月9日、東京都内で開催された「過労死等防止対策推進シンポジウム」で母親の幸美さんは「今、この瞬間にも同じことが起きているかも知れません」と、残業削減だけでなく企業風土の改革をしてほしいと訴えました。
 

さらに、まつりさんの働き方について、幸美さんは、残業に加えて自宅で徹夜の作業をしていたと明かしました。まつりさんが、2015年10月に本採用となった後は、土日出勤、朝5時帰宅という日もあったそうです。

 

「『こんなにつらいと思わなかった』『今週10時間しか寝ていない』『会社やめたい』『休職するか退職するか、自分で決めるので、お母さんは口出ししないでね』と言っていました」。
 

さらに、亡くなった12月には部署全員に対して、残業の上限を撤廃する36協定の特別条項が出され、深夜労働が続き、忘年会の準備のためにも土日や深夜に残業していたといいます。また、まつりさんについて、過労だけでなく「パワハラやセクハラで個人の尊厳を傷つけられていた」とも訴えました。
 

「社員の命を犠牲にして業績をあげる企業が、日本の発展をリードする優良企業と言えるでしょうか。命より大切な仕事はありません。娘の死はパフォーマンスではありません。フィクションではありません。現実に起こったことなのです」。
 

幸美さんは、まつりさんが自殺した朝に残していたメールの内容も明かしました。そのメールには、「大好きで大切なおかあさん。さようなら。ありがとう。人生も仕事もすべてがつらいです。お母さん、自分を責めないでね。最高のお母さんだから」と書かれていました。
 

なぜ私やあなたの子供ではなく、まつりさんだったのでしょうか。彼女自身に原因があったのでしょうか。ある大学教授や、長いものにまかれて人格を喪失した人間たちがそうだと叫んでいます。何という想像力の貧困な人間たちでしょう!
 

まつりさんは、今の社会のゆがみを受けとめる<器>として使われたのです。私やあなたの子供ではなく、たまたま、まつりさんだったのです。彼女は私たちの子供の身代わりとして自殺したのです。そう考えなければ、彼女は浮かばれません。
 

この事件は、ある意味で日本の教育の貧困が招いたものです。教師たちは、子供たちをトコロテンのように上の学校へ送り込みさえすればいいのでしょうか。教師たちは、一人の人間として、どのように世界と向き合うかということについて語らなくていいのでしょうか。何のために学ぶのか、どういう働き方をするのか、そういう問いを発することを、発していいのだということを、教師が身を持って教えなければ、子供たちは誰から学ぶのでしょうか。
 

選挙権が18歳以上に与えられた途端、教育現場に「政治的中立性」を要求したのは誰か?「テレビ局が政治的公平性・中立性を欠く放送を繰り返した場合、停波もありうる」と発言したのは誰か?どのような言説が、政治的中立性を害するとして攻撃されているのか?
 

この言葉は真実を隠蔽するために使われています。断言しますが、このままでは子供たちはいずれ殺す側か、殺される側に立たされることになります。いやすでにそうなっています。いじめによって自殺に追い込まれる子供に責任があるのでしょうか。あなたの子供が、たまたま社会のゆがみを受け止める<器>として使われていないだけです。
 

今の日本には、私たちの代わりに<器>として使われ、住む場所も、生活も、ささやかな幸せも、命すら奪われている人々がたくさんいます。これが政治的問題でなくて、一体何なんでしょう。