未来塾通信62



批判的知性はいかにして失われたか−教育産業の役割



■言わずもがなのことですが、そもそも批判的でない知性など存在しません。政治権力を独占し、富を一部の人間に集中することで世界をゆがめ、私たちの暮らしを蹂躙し、自由な言論を封殺しようとする勢力を批判することこそが知性の本来果たすべき役割です。なぜなら、本物の知性は、倫理の母胎である「普遍的な感情」に起源をもつため、同じ時代を生きる人々の窮状やいのちの危機を見過ごすことができないからです。


現在、批判的知性が最も欠けているのが、安倍政権の広報機関と化してしまったマスメディアの現場です。最も必要とされる場所に、それがないのです。こういう言説に対して、「偏っている」「左翼」「反日」「恥ずかしい大人(安倍首相の発言)」といったことばが投げつけられます。そしてそれを異常だとも思わない世間の空気が醸成されています。その国の政治のレベルは国民のレベルを表わしているとはよく言われることですが、なぜこんなことになったのでしょうか。

 
私は30年以上にわたって塾の教師をしてきました。この間、教育の世界で起こった最も大きな変化は、「教育」といえば「受験教育」を意味するようになったということです。その結果、偏差値であらわされる線型の序列性のどこにこどもが位置しているかが、教育がうまくいっているかどうかを判断するモノサシとなりました。教育メディアがこれに拍車をかけています。多くの人々は、この現実を受け入れ、それに適応すべく学校や塾や予備校に関する様々な情報を集めています。

 
この国では、こどもたちが少しでも「頭がいい」とか「能力がある」と見られると、ごく初期の段階から、受験競争に参加させられます。そこで要求されるのは、受験に役立つ知識を整理・分類して番号を振り、確実に取り出せるようにその収納場所を覚えておく能力です。簡単に言えば、高速事務処理能力と記憶力ですね。現在では通信教育を始めとして、この作業のほとんどを教育産業が肩代わりしています。教育産業は外注産業の別名です。こどもたちに残されているのは、それを効率よく記憶し、カスタマイズすることくらいです。
 

しかし、膨大な知識をグループ分けすること自体が、思考力や記憶力を強くすることに役立ちます。なぜなら、全体をいくつかのグループに分けるモノサシを発見し、そのモノサシを絶えず見直さなければならないからです。新しい定義を考えたり、二つ以上のグループを一つにまとめる上位概念を考えたりする必要があります。これが論理的な思考を鍛えます。そして最後に、論理的に導き出された二つの結論のうちどちらを選択すべきかという倫理的価値判断の問題が浮上します。しかし、効率とスピードを至上命題とする株式会社化した社会では、この過程は故意に省かれます。

 
例えばセンター試験の現代文では、あくまで、出題者が本文から合理的に導き出されると考える選択肢が正解とされます。つまり、筆者ではなく出題者の解釈を探り当てることが要求されるのです。センター試験は択一式です。つまり、正解の選択肢が既に与えられています。そこで出題者は正解の選択肢を「隠蔽」(笑)するために、なるべく本文で使われていない言葉を使って、しかも同じ内容になるように「巧妙に言い換えた」選択肢を作るのです。塾や予備校で指導されているのは、「論理的思考力」と銘打ったニセの選択肢を発見する方法なのです。

 
幼いころからこういった方法を身につけ、めでたく難関大学に合格した暁には、ある特殊な発想と技術を持った官僚予備軍ができあがります。その後、正規軍となった官僚が書いた「合格答案」が、昨年(2015年)安倍首相が発表した「戦後70年談話」です。


お詫びという言葉を使っても謝らない。侵略と言いながら日本の参戦の正当さを示唆する。植民地支配への反省を口にしながら日露戦争の勝利が第三世界の希望であったことを匂わせる。全体として強い反省の気持ちを強調しつつも、もうこれ以上は謝罪しない決意をにじませる。こんな論理的に錯綜した原稿が書けるのは、普通のアタマを持った人間には不可能です。


小さいときからせっせと塾に通い、有名進学校の答案用紙のレイアウトに慣れ、主観的な感想は客観性を損うと信じ込み、求められているすべての要素を巧みに混ぜ合わせた答案を書くようにトレーニングを重ねた人間だけが書ける文章です。


私の知る範囲では、大学教師たちの多くが、政治的な立場とは別に、談話原稿の出来栄えをおおむね高く評価していました。おそらく、論文を採点することに慣れた人たちは、今回の談話原稿の課題達成度の高さと、レトリックの巧みさと、アクロバティックな論理構成の見事さに、高い点数をつけざるを得なかったのでしょう。「う〜ん、これじゃ減点できないよね」とかなんとか言いながら。


しかし、この談話には倫理的な責任主体が決定的に欠けています。誰からも文句が出ないように書かれた文章は、誰の心にも届きません。ま、どうせ誰も覚えていないでしょうが。