未来塾通信57



「消費者」はどのようにして道徳を締め出したか(2015:5:1)


■通信56で書いた母子は、リーマン・ショックの年、そしてコンビニの年間売上高が初めて百貨店の年間売上高を抜いた2008年以降(私は後期消費社会と名づけている)に登場してきた新しいタイプの「消費者」だと思う。ここでいう「消費者」とは、市場価値・交換価値万能の考えが生活のあらゆる側面に浸透していることに疑いの目を向けることもせず、その中で自己利益を最大化することこそが人生の目的だと思い込んでいる人々である。すべての物を市場での取引対象にするグローバリズムの価値観を生き方の根幹に据えているために、その状況を批判的に見ることができない。彼らは、「商品の選択」と「情報収集」のために多くの時間を割く一方で、本来商品化になじまない教育や医療、そして政治にまで消費者発想を持ち込む。


 消費社会は、対価と引き換えに、あらゆることを外注し、ついにはこどもを育てる責任まで外注する社会である。いやそれどころか、こどもを生むことまで外注する。マイケル・サンデルの『市場主義の限界−それをお金で買いますか』(早川書房)の中には、インドの代理母による妊娠代行サービスの例が挙げられている。料金6,250ドル。アメリカの相場の三分の一にも満たないそうだ。何かが根本的に間違っているという感覚すら、もはやなくなっている。


 消費者の意識や態度は、それと気づかないうちに、「お客様を煩わさないで。面倒だからあなたが決めてよ、気に入ったら買ってやるから」という方向に傾斜して行く。消費者はサービスを消費するだけ。不具合があれば文句を言うだけ。何も生み出さない。対価を払う以外、何も主体的にかかわろうとしない。


 つまり私たちは、「商品の選択」と「情報収集」という、閉ざされたバイアスのかかった狭い世界の中で、自己利益の最大化に役立つ限りで、能力を伸ばし、自我を形成しようとしている。何のことはない、自由意志で生きているつもりでも、私たちはお釈迦様の手の中で生かされている孫悟空にすぎないのである。今回の通信では、本来商品化になじまないものまで、商品化することによって生じる道徳的腐敗について考えてみたい。


 まず、ある保育所に関するエピソードから始めよう。
その保育所は、ある問題に直面していた。時々親がこどもを迎えに来るのが遅くなるのだ。そうなれば保育士が勤務時間を超過してこどもと一緒に残らなくてはならない。この問題を解決しようと、保育所は、定刻に遅れた親から罰金を徴収することに決めた。するとどうなったか。遅刻する親が増えてしまったのだ。普通なら、親は罰金を払いたくないので、できるだけ遅刻を避けようとするはずである。いったい何が起こったのだろうか。お金を払わせることによって、親がこどもを迎えに来るという行為の背後にあった規範の性質が変わってしまったのである。以前は遅刻する親は後ろめたさを感じ、保育士に申し訳ないと感じていた。迎えを待っているこどもの寂しさや不安を想像し、少しでも早くこどもを迎えに行こうとした。しかし、罰金を払うことで、親の後ろめたさはすっかり消えてしまった。親は罰金さえ払えば遅刻が許されるのだと受け取るようになったからだ。かくして、親は罰金を払うことで、余計に遅刻するようになった。


 本来なら、親がこどもを養育することはそれ自体が喜びのはずである。それ自体が喜びであるものを、金銭を媒介させることで変質させてしまったのである。つまり、もともと市場的な取引にはなじまないものを、金銭を媒介させることによって、親子の間にあったエロス的な感情をドライで平板なものに変えてしまったのだ。ではなぜ金銭を媒介させると規範が変質するのか。


 その問いに答える前に、この保育所のケースには後日談がある。逆効果に気づいた保育所は、罰金制度を止めにした。しかし、遅刻の頻度は元に戻らず、高止まってしまった。罰金の導入によって一旦変質してしまった規範の性質は、もう元に戻らないのだ。一言で言えば、「消費者」が道徳を締め出すのに手を貸したのである。私たちの周囲にはこういった事例があふれている。それと気づかない間に、私たちの規範意識は市場価値によって侵食され、その恐ろしさに気づいても、もはや立て直すだけの土台が残っていない可能性がある。


 同じような例は、枚挙にいとまないのだが、もう一つだけ例をあげてみる。鹿児島県立大口高校は、れっきとした県立高校だが、平成26年度から大学進学奨励交付事業の一環として、一定レベル以上の大学に合格した卒業生に奨励金を交付することにした。具体的には旧帝国大学(東京大学・九州大学等)クラスの大学とそれに準ずる学部(医学部医学科など)の難関国公立大学に合格すれば100万円を、早稲田や慶応など難関私立大学に合格しても100万円を交付するとしたのである。さらに、上記以外の難関国公立大学およびそれに準ずる私立大学に合格すれば30万円を交付するとホームページで宣言している。そして「大口高校は、生徒一人一人の可能性を伸ばし進路実現を達成します。」と結んでいる。


 2015年4月4日の朝日新聞が『耕論』でこの問題を取り上げ、当事者である市長と2人の識者の意見を掲載している。大口高校のある伊佐市の隈元市長は、奨励金を出す理由を述べている。第一に、昨夏の調査の結果、大口高校への進学希望者が定員120名に対し、56人だったこと。そのため県教育委員会が3学級を2学級に減らすと通告してきた。猶予は1年間で、今夏の調査で入学希望者が81人に達しなければ学級減を防げないということ。第二に、鹿児島では多くの県立高校の統廃合が進み、鹿児島市などの中核都市にしか高校は残らないかもしれない。地域が生き残るために、地元に若い人をつなぎとめる工夫が必要だという理由である。


 どちらも切実な理由である。しかし、「若い人をつなぎとめる工夫」が「東大合格なら100万円」というのは、伊佐市長をはじめとして、この自治体のどうしようもない後進性を表わしている。学習の目的を「一流大学」合格に限定することは、大学間のヒエラルキーをそのまま肯定し、こどもたちに差別感情を植えつけることになる。しかも金銭的な報酬をからませているのだ。


 伊佐市と同じ問題を抱えている自治体は多い。もし伊佐市の取り組みが本質的で優れたものであれば、参考にする自治体が次々に現れてくるはずである。しかし、その可能性はない。現に、2年連続で大口高校の志願者数は定員の半分である60名前後にとどまっている。伊佐市の取り組みは目先の利益で生徒を釣る以外の何ものでもない。これでは、「一流大学」に合格した生徒は出身校の名前を隠したくなるだろうし、奨励金交付の対象にならない「三流大学」に合格した生徒も伊佐市に戻ってはこないだろう。侮辱されたと感じる生徒も多いはずだから。


 目先の利益といえば、この問題をめぐってコメントしていた立命館大学教授の陰山英男氏の発想も伊佐市長と同じである。地域生き残りの窮余の策として、奨励金を交付することの是非を論じているのに、陰山氏は自分の娘が東大に合格したエピソードから始め、「東大合格に必要な条件は三つ。基礎的な学力、受験のスキル、そしてなによりも東大に入りたいという強い意欲をもつことです」と続ける。陰山氏の問題把握力のなさに呆れたが、これは今に始まったことではない。氏は小学校教員をしていたときの「百ます計算」(岸本裕司氏が考案したもので陰山氏の独創ではない)をはじめとする教育実践を自画自賛し、教え子が国立大学の医学部に合格したのは自身の教育実践が優れていたからだと胸を張った。それに目をつけた出版社が、「学力向上」の世論操作とわが子の学力向上を願う親たちを巻き込む商業戦略によって、氏をパーフェクト教師に仕立て上げてしまったのである。

氏は小学校を卒業して大学を受験するまでの6年間が子どもたちにとってどれほどの重みを持っているか想像したことがあるのだろうか。この時期は、人格が根本から改変され、新たな自我が芽生える最も多感な時期である。普通、小学校の教師は自分たちが今教えていることを、その子たちの大学受験に結び付けたりはしない。一体、小学校の教員で、教え子が大学に合格したとき、それを自分の教育実践のせいにするような破廉恥な教師がいるものだろうか。しかし、これこそが陰山氏の発想のルーツなのだ。(この点に関しては、後日、「思考停止装置としての『学力イデオロギー』」で詳しく論じるつもりである)

 陰山氏のみならず、かなり多くの教育関係者や親が、こういった考えを持ち始めた時期は、1990年以降、経済学においてインセンティブという新しい概念が登場してくるのと軌を一にしている。経済学はインセンティブの研究だと言い切ってしまう経済学者もいるほどである。このインセンティブという概念を、教育界で最初に力説したのは、おそらく、精神科医で受験本の出版に余念がない和田秀樹氏である。何のことはない、氏の発するメッセージはインセンティブなどという言葉を使うまでもなく、「勉強すると得をする」「得をするから勉強する」という目先の利益である。馬の鼻先にニンジンをぶら下げるのと同じである。東大に入れば得をするのであり、得をする限り、みんなが目指すはずなのである。東大に合格する受験力を持つことが大切であり、その受験力が真理や幸福につながっているかどうかは問題ではない。学力とは受験学力を意味するのだから、学力の中身については考えるひつようはない、のである。

 しかし、学力とは、自分の学習していることが真理や多くの人々の幸福につながっているかどうかを絶えず確認せずにはいられない精神の働きであり、それによって困難を乗り越えようとする普遍的な意志のようなものではないのか。陰山英男氏や和田秀樹氏にはこういった視点が欠落している。学力やこどもの学びを論ずることは、人間とは何か、世界とは何かを論ずることである。そもそも、この二人にはそれを論ずる力量がない。目先の利益を追い求める人や、東大に合格する「学力」をつけたいと願う親子に、十年一日のごとく、かわり映えのしない情報を垂れ流し続けているだけである。

 「東大や早稲田・慶応に合格すれば100万円を交付する」とする、大口高校の試みは失敗するだろう。東大に合格した生徒に100万円という金銭的報酬を与えることは、教育の世界に市場のルールを持ち込むことである。教育評論家の尾木直樹氏は、「吐き気がする」と切って捨てた。おそらく尾木氏は、学ぶ行為を商品とみなす発想に、がまんならないのである。その気持ちは私にはよくわかる。尾木氏に共感する。

 しかし、尾木氏がしなければならないことは、学ぶ行為を商品とみなしそれに金銭的報酬を与えることは本当に学ぶ行為そのものを毀損するのか、という問いを立てることである。具体的な例で考えてみよう。ダラスの成績不振校では、読書を奨励するために、子どもたちが本を一冊読むたびにお金を払っている。同じようなことを私たちもしているのではないか。テストの点数が上がれば、子どもの小遣いを増やしてやるというように。前出の和田秀樹氏はこれをインセンティブに基づく教育だとして奨励している。大口高校の例は、私たちが深く考えもせずに日々行っていることが、堂々と公教育の現場で実行されたため、世間の耳目を集めたに過ぎないのである。

 学ぶ行為を商品的な価値に換算することは、常に低級なものに見える。なぜか。ある行為が高い倫理性を持つと感じられるのは、それ自体が目的となっていて、手段になっていないからだ。真理を探究する喜びや、世界に向かって自分を開いていくときの興奮を味わうために学んでいる人間と、金銭的な報酬に釣られて学んでいる人間を、私たちは本当に同価値だとみなせるだろうか。この問いにイエスと答える人間は、目には見えないが、前者が人間としての誇りや倫理を、つまり私たちのより良き生を根底で支えていることに気づいていない。カントは倫理に関する公準の中で「他者を手段としてではなく、それ自体価値のある目的として扱え」と言っている。

 学ぶ行為を商品とみなすことは、必然的に、何かの利益につながりうる手段として扱うことを意味する。ではどうして商品とみなすことが手段として扱うことになるのか。商品として見るということは、それをある量のお金と等価なものとみなすことだ。お金は本来、水や食糧と違って、それ自体としては価値を持たない。それは単なる紙切れで、他の何かと交換するための媒体に過ぎない。つまり、お金は市場の中では、普遍的な手段に過ぎない。対象(子どもや学び)を商品とみなした途端に、すなわち、それを一定量の貨幣と等価であると判断した瞬間に、普遍的な手段としての貨幣の性質が、その対象にも伝染するのである。

 市場主義=資本主義は、特定の存在や目的より、普遍的な手段=貨幣のほうに魅力があるように見せることで駆動するシステムである。そして、まさにその性質によって、手段でしかなかったお金に目的が仕えるという逆転が生じる。経済学は、お金は何にでも交換出来る手段に過ぎないのだから目的の価値を変えるものではないと教えるが、実は商品化した途端に手段が目的にとって代わるのだ。そして、「それ自体で価値のあるもの」からは、かっての輝きは失われてしまう。つまり、子どもは、親が将来の自己利益のために我慢して育てなければならない金のかかる厄介な存在に過ぎなくなるのである。同様に、学びは、テストに速く、うまく、効率的に答える能力を特化させ、個人の商品価値を高める方向に最短距離で、最速で向かう手段となる。これは一種のイデオロギーである。これは学ぶ主体を道徳的に腐敗させ、ひいては学ぶ行為そのものを毀損する。

 私は塾の教師であるから、絶えずこの道徳的腐敗に直面している。だからそれを避けるために、生徒を「お客様」扱いしない。リテラシーの低い親にどこまでも迎合することもしない。離乳食のように教えるべき内容を噛み砕き、スプーンで生徒の口に運び、生徒は噛むこともせず飲み込むような授業もしない。家庭や育ちや能力による差をできるだけ埋めようと努力はするが、すべてを埋めることなどできない。すべての生徒が理解できる方法もない。生徒は教えられた内容をそのまま受け入れる機械ではないからだ。「知」はどんなに重要なものであれ、ささやかなものであれ、受け入れる側が自分の力で考え、学ぼうとしない限り、受容されることはない。ましてや、活用されることもない。私は埋めがたい能力差を前にして、生徒がすべてを理解できないでいること、完全に教育されないことの中に救いを見出し、人間の尊厳を見出している。