未来塾通信56


消費者発想では子どもは育たない- ある象徴的な出来事(2015:2:22)

■先日、塾教師をしているSさんが、久しぶりに遊びに来た。Sさんは県立高校や公務員予備校で教鞭をとったことのある、実力派の教師である。今は、大分市の中心部で、主に付属小・中学校の生徒を教えている。世間話のついでに、最近私の塾であった出来事と、その原因を私なりに分析して話したところ、Sさんは心底驚いた表情を浮かべ、自分の塾でもまったく瓜二つのことが起こっている、そして、そのために疲労困憊しているのだと話してくれた。私の話した出来事とは次のようなものである。

  一年ほど前、ある母親と6年生になる男の子が入塾の申し込みにやってきた。子どもを新設の鹿児島県の中高一貫校に入れたいとのことであった。JAXA(宇宙航空研究開発機構)の研究員が授業をすることもあるそうで、母親はそのことを得意げに話した。当の子どもはといえば、母親の話にはそれほど反応せず、時折うなずく程度であった。私の質問に答えるときも、母親に付き合っているという風であった。

  親子で、中学受験のプラス面、マイナス面をよく話し合って決めたのであれば、それを他人がとやかく言うべきではない(もっとも、中学受験のマイナス面を分析できている親は驚くほど少ないのだが)。しかし、中学受験に特化した勉強や前倒しの学習は、子どもにとって最も大切な想像力と幼少年時代の時間を奪うことになるので、私は生徒にも親にも勧めたことはない。本来なら、人工的な環境ではなく、自然の中で思う存分遊ぶ時期である。(このことは後日、未来塾通信に『中学受験は誰のため?』と題して書こうと思う)そのこともあって、中学受験対策はしていないことをその母親に伝えた。塾のホームページにもそのことをはっきりと書いている。

  塾の方針を伝えたにもかかわらず、とにかく学ぶことが面白いと思えるようになって欲しいので、中高一貫校に入学するまでの一年間だけお世話になりたい、とのことであった。自分の子どもが中学入試に合格することを当然の前提として、それまでの期限付きで入塾するというのも、現実を知らない身勝手な親だなと、そのときは思った。もし、子どもが将来JAXAで働くことを本当に夢見ているのであれば、中学受験対策をしっかりして、その学校に合格できるように協力するのが合理的な思考のできる普通の親だろう。私の塾に来ている暇などないはずだが、とも告げた。話しているうちに、言葉が相手に届いていないことから来る違和感と、母親の言っていることが、つじつまの合っていないうわべだけのものであることに気づいたが、入塾の申し込みに来ている母親にそれを質すことなどできるはずもない。むげに断るわけにも行かないので、世間話でお茶を濁し、一年間だけ引き受けることにした。それが間違いの元だった。

  入塾して一ヶ月もしないうちに、その男の子の集中力のなさに驚くこととなった。長年塾をやっているが、ここまで人の話を聞かない生徒は初めてであった。何度注意しても、すぐ後ろを向いて友達の男の子に話しかける。姿勢も悪い。ほんの数秒間もじっとしていることができない。注意されて初めてテキストを取り出す。筆記用具は持ってきていない。テキストを忘れることは当たり前で、渡したテキストを紛失することもあった。私は毎回毎回、「○○君、塾に来る前に、カバンの中を見て、テキストと筆記用具が入っているのを確認してるの?それに何秒かかるの?毎回同じことを言われているよね」と言わざるを得なかったのである。その度に授業は中断され、勉強をしようと思っているほかの生徒に迷惑をかけることになる。

それでも私は辛抱強く待ち続けた。何といっても相手は小学校6年生の、やんちゃ盛りの男の子である。待ち続けているうちに少しずつ落ち着きが出てきて、学習に向かう姿勢を身につけることに賭けようと思った。過去にそういった生徒もいたし、現に6年生になって落ち着いて学習に取り組んでいる生徒もいるからだ。しかし、この男の子にはその兆しすら見えてこなかった。もう一人同じような生徒がいて、彼は指名すると本当にむかつくといった表情を見せ、問題を解くために粘り強く考えること自体を嫌悪していた。指名されていないときは、足を大きく投げ出し、ふんぞり返って椅子にもたれかかり、テキストを見ることもしていない。

  「塾で勉強することの良い点は、他人の答えや、間違い方、それに、答えを出すためにどんなプロセスをたどったのかを聞くことができて、自分の考えと比べられるところにあるんだね。一人で勉強していれば、それができないよね。だから僕はいつも、答えがあっているかどうかより、どんな道を通って答えにたどり着いたか、それを発表してくれるように頼んでいるだろう。それができるためには、僕に当てられていないときでも、いっしょに考えていなければならない。当てられて初めてテキストを開いたり、今、どの問題をやっているかわからなかったりでは、塾で勉強する意味はないよね。」などと繰り返し言わなければならなくなったのである。この二人と連れ立って遊ぶために塾にやって来ていた男の子もいたが、たぶん彼らの場合は、仲間との「粘着」を無意識の根拠として塾に通っていただけだと思う。

  あるとき、この二人の男の子の態度が、周りに迷惑をかけすぎると感じたので、授業後、二人を残し、「このままだと、君たちには塾を止めてもらわなければならない。僕も辛抱強く待ったが、いい加減に落ち着いて学習に取り組んだらどうか。今後も態度が変わらなければ、塾はやめてもらうからね。そもそも君たち二人は、塾で勉強することに向いていない。家庭教師に毎日来てもらって、付きっきりで教えてもらうほかないだろう。親に電話して頼んでやろうか?」と言い渡した。そのときは二人とも殊勝な態度を見せ、これからは「ちゃんとやる」と言い、反省しているようでもあった。

しかし、殊勝になっているときの自分と、やるべきことをやれず、軽薄さのうちに安住している自分を、同じ一つの自己としてつなぎ合わせることのできる「内面」を、この時点で、彼らが全く持ち合わせていないことに私は気づいた。この自己の分裂状態を統御できるだけの「内面」の未形成に接した時、彼らは、同じ「ことば」が流通している世界ではない、どこか異界に生きているのだと思い知らされた。意志とか、耐えるとか、目標とか試練とか努力といった、旧来のことばを手がかりとして、彼らのようなケースに接近することは、根本的に無効だと思ったのである。彼らは、親の身勝手なエゴに振り回されてこの異界の中を漂流し続けるほかない。それがいつまで続くのか、その結果、どこに漂着するのか、それは誰にもわからない。

  一般に小学生は、生殺与奪の権限を全面的に親に握られている。したがって、家族との関係を自分という人間の核として受けいれるしかない。そして、多くの場合、母親によって関係の質を宿命的に決められるのだ。いわば与えられた家族関係を食べて消化吸収しながら成長する時期だと言える。つまり、親の命令に背くことができない日々を生きるしかない。彼は親の命令が正しいから従うのではなく、それがまさに親の命令であるから従うのである。同時に、家族関係の質を、周囲に対して無防備にさらすことになる。これを昔の人は「子どもは親の鏡」と一言で表現していたのだ。

  とまれ、彼らがこれからは「ちゃんとやる」と宣言した以上、私もそれなりに誠意を持って向き合おうとした。が、つかの間の沈静こそあれ、二人の態度に変化はなく、またぞろ同じことの繰り返しとなった。若かったころの私であれば、子どもたちが集中できないのは教える側に問題があるのではないかと考えていただろう。現にそう考えて、私は若い頃様々な試行錯誤を繰り返した。そして今は、教える側に責任はないとは言わないが、子育ての主体は親である以上、責任はやはり親にあると言わざるを得ない。社会や学校に責任があるケースもあるだろうが、それは具体的なケースをていねいに腑分けして考えるしかない。

  私は、ここまで我慢したのだから、約束の1年まであと3ヶ月だ、途中で退塾を宣告するのもかわいそうだと思い、最後まで付き合うことにしようと決めていた。ところがある日、小学生の授業を終えて、中学生の授業プリントを取りに部屋にもどっていると、ドアの向こうで「すいませ〜ん。すいませ〜ん。」という声がした。私は驚いて引き返しドアを開けると例の男の子の母親が立っているではないか。そしていきなり「先生、うちの子にカメムシを投げつけたんですか!」と言った。私は瞬間的に事情を理解し「いいえ、○○君と遊んでいただけですよ。投げつけたりしていません。○○君はやんちゃで、かわいいお子さんです。」と言って引き取ってもらった。この母親は、まず玄関のドアを開け、教室の引き戸を開け、すでに中学3年生が机についている中を横切り、ホワイトボードを動かし、その裏の引き戸を開けて、私の部屋に向かって叫んだのである。私は何か事故でもあったのかと驚いた。ここまで入ってくる親など、これまで一人もいなかったからだ。そのあげく、「先生、うちの子にカメムシを投げつけたんですか!」である。私は絶句するほかなかった。

  その母親の顔を見て、私はすべてを悟った。要するに、コンビニで買ったおでんの中に、髪の毛が一本入っていたと、店員にクレームをつけている客の顔だったのである。この母親から見れば、私はコンビニの店員なのである。コンビニの店員も立派な仕事であり、塾の教師となんら違いはないと私は思っているので、そのことで私は不快に思ったりはしない。ただこの母親は、消費者であること、つまり対価を払って商品を買っている以上、自分は客であり、相手との関係は対等なはずだと考えているのだろう。年長者に対する基本的なうやまいの感情や礼儀は古臭く、考慮に値しないと思っているようだった。そう考えなければ、この母親の行動は理解できない。

こどもを通して私が見ていた母親のイメージとその行動が見事に重なったため、私に出来ることはもはやない、手を引かざるを得ないと、思った。その翌日、私はこの母親に電話し、「私の力では息子さんを勉強に向かわせることはできません。もっと優秀な先生のいる塾に変わることをお勧めします」と告げ、退塾してもらうことにした。32年間の塾教師の経験の中で、2度目のことである。母親の常軌を逸した行動がなければ、私はずるずると我慢していたかもしれない。そう思うと、われながら自分の優柔不断さにうんざりする。

  真相はこうだったのである。この母親のこどもである例の男の子は、その日も相変わらず同じ授業態度であった。大事な箇所を説明しているにもかかわらず、私の話をまったく聞かず、後ろの生徒に話しかけてみたり、キョロキョロ辺りを見回したりしていた。突然、「ロールカーテンの裏にカメムシがいる!」と叫びだした。無視するのもかわいそうなので、カーテンの裏に回ると、死んで干からびたカメムシの死骸が挟まっていた。授業中にこんなものを見つけること自体、まったく集中していない証拠である。ティッシュにその死骸をくるみ、ついでに遊んでやろうと思い、それを嗅いで、間寛平よろしく「くっさ〜」とおおげさに言って、その男の子に汁をつける真似をしたのである。ほかの生徒はキャーキャー言って騒いでいただけである。時には教師というものは生徒のレベルにまで降りていって付き合わなければならない。特にこの男の子の場合、ある種の遊びや体罰のまね事でもしない限り、関心をひきつけることなど出来ない相談であった。

  おそらく男の子は「先生にカメムシを投げつけられた」と母親に告げ、消費者心理を内面化した母親がクレームをつけるという仕儀にいたったのである。この男の子は、私に一度ならず退塾勧告をされたことなど恐らく母親に話していないだろう。話していれば連絡があるはずだ。小学生の男の子は、前述したように母親にしかられることを本能的に避けようとする。だから、塾で注意されていることや、自分に都合の悪いことは話さないものである。

それでも普通の想像力のある親なら、こどもの言うことをそのまま鵜呑みにしたりしないはずである。息子が塾で何をやっているかくらい、普段の生活を見ていれば当然予想出来るはずだ。つまり、この母子の間にはちゃんとした意思の疎通などなく、お互いがバラバラの方向を見て生活しているのだと思う。そして母親は勝手な願望をこどもに押し付けているだけだろう。それとも、念願の中学受験に合格し、今頃は新しい学校での生活に親子で希望をふくらませているのだろうか。

  教室は独特の性格を帯びた空間である。いわば、大きな水槽の中を大小さまざまな魚が泳ぎまわっているようなものだ。その中で、教師は全体を一つの方向に(塾の場合学力をつけることが中心になる)統制しなくてはならない。その過程で、経験を語り、威厳を示し、あるときは生徒と同じレベルまで降りていくことも必要になる。教室での授業は一回きりの芝居のようなもので、同じことの繰り返しに見えて、再現不可能な固有の質をもっている。その中で吐かれたことばは、生きた魚のように、俊敏に動き、たちどころに姿を消す。ときには乱暴で下品にも見える。しかし、教室の中で飛び交っていることばには、魚臭さはない。ところが、その空間を共有していない第三者がその中で吐かれたことばや行動をあとから検証すれば、それは死んだ魚のように腐臭を発するようになる。この間の事情に想像力を働かせて接近できない者は、ことばや行動の一つ一つを取り上げ、眉をひそめて非難するしかないのだ。

  その後、この母親はこどもが退塾させられたことを根に持ち、あちこちで私の塾の悪口を言いふらしていると聞いた。この母親のいかにもやりそうなことだったので、私はまったく驚かなかった。たかが塾の悪口を言いふらすなど、よほど恵まれた生活をしている暇人なのだろうと思っただけである。しかし、私はこの母親に逆に感謝している。彼女の話を真に受ける様な親子には、最初から入塾を遠慮してもらいたいからだ。この親子はちょっといやだなと思っても、面と向かっては断りにくいものである。彼女は私の塾の広報担当となって、そういう親子をあらかじめ選別してくれているのだ。私の塾は、経営のためにテレビコマーシャルを打って生徒数を増やすことに血道をあげる塾ではないから、逆に助かっている。

  久しぶりに会った同業者のSさんに話したのは、ここまでである。彼女は私の話に納得して、疲労困憊している精神状態から立ち直れそうだと言ってくれた。付属小学校に通う5人のこどもとその母親たちが塾の中をかき乱し、あげくに後ろ足で砂をかけるようにして去っていった直後だったのである。こういうこどもや母親が次々と登場してくる背景には何があるのか、という点については、時間不足で話せなかった。続きは未来塾通信57・『「消費者」はどのようにして道徳を締め出したか』に書く予定である。
  私はこの親子になんらの恨みもない。あくまで、ある普遍的なものの象徴として語りたいと思う。