未来塾通信52


変質してしまった世界の中で − K君へ(2014:11:26)

■K君、元気でやっていますか。センター試験まで残すところ50日余りとなりました。光陰矢の如しです。博多に行く用事はあったのですが、会って食事をし、ゆっくり話す時間が取れそうもなかったので連絡しませんでした。申し訳ありません。直接会って励ましたいのですが、もはやそのような時間がもったいない時期となってしまいました。そこで、ささやかな励ましの文章を書こうと思い立ちました。年は離れているけど、なんと言っても、僕たちは7年間にわたる友人だったからね。

 一緒に久住山に登り、小出裕章氏の講演会にも行ったM君から、夏休みに電話をもらいました。「これから京都に行くので、先生お勧めの穴場を紹介してください」とのことでした。そこで僕の大好きな場所、詩仙堂と大徳寺・高桐院を紹介しました。数日後、お土産を持って遊びに来てくれたM君が、詩仙堂を絶賛するのを聞いて感銘を受けました。そのとき、来年K君が京都大学に合格すれば、名古屋大学に行っているY君とも京都で合流して、上高 OB4人組で遊ぼうという計画を立てました。バック・パッカーになって、僕の案内でイギリスを旅行する案も出ました。実現したいですね。

 ところで、K君にとってこの一年間は、単なる停滞期間ではなく、色々なことを見つめ直し、家族のありがたさを痛感する、とても意味のある期間だったのではないでしょうか。広島大学に合格していたにもかかわらず、初志貫徹のため浪人を選択したK君と、ろくに勉強もせず浪人した僕を比較するのもおこがましいのですが、少なくとも僕にとって、浪人時代はその後の人生の中で決定的に重要な意味を持っていました。

 小学校の卒業文集で、将来はプロ野球選手か生物学者になりたいと書いた僕ですが、プロ野球選手はさて置き、生物学者と書いたのは、ファーブル昆虫記を夢中になって読んだ影響でしょう。(岩波文庫版の訳者がその後影響を受けることになる林達夫だったことも、何かの因縁でしょう。)昆虫を友として生きていた少年期の僕に、一つ不思議でしょうがなかったことがあります。

 それは、カブトムシの幼虫は土の中で腐葉土を食べ、モンシロチョウはキャベツの葉を食べていたのに、なぜ成虫になると樹液や花の蜜だけで生きることができるのか、ということでした。その説明として、完全変態という言葉を覚えましたが、その疑問は解けないままで、いつの間にか忘れてしまいました。その後、食性が劇的に変化するのに対応するため、昆虫は幼虫と成虫の間にさなぎの時期が必要なのだということ。さなぎの内部では幼虫の体のあらゆる組織を分解してドロドロ状態にし、それを成虫の体の材料にしてあらゆる臓器を成虫仕様に組み立てなおすという荒技が繰り出されていること。そして、この「体の設計変更」の時期は、体の内部は嵐に巻き込まれているようなもので、きわめて脆弱な状態になる。だから、さなぎの時期はほとんど動けなくなり、周囲に擬態するしか身を守る手段がなくなってしまう、ということを学びました。

 考えてみると、僕にとっての浪人時代は、まさに、さなぎの時期だったのです。大学時代も含めてその後数年の間、僕はこの嵐の中にいました。蝶になって無事飛立てるかどうかはまったくわからず、不安と焦燥感ばかりが募る日々でした。学校で学んだことは支えにはならず、一人の人間として自立するためには、学校教育を通じて当然だとされてきた価値の体系の根本的な組み換えが必要だと感じたのです。

 この時期、僕は文字通り何かに憑かれたように読書し、自分の限界と可能性を模索しました。『未来塾通信41』にも書きましたが、本を読むということは、何がしかの情報を手に入れるための手段ではなく、一つの世界と出会うことを意味します。一人一人の人間が孤独も悩みも含めてかけがえのない一つの世界を持っている。しかもそれぞれの世界は、時間も空間も超えて相互にコミュニケーションが可能な状態で開かれている。このことに気づいた僕は、自分が生きることのできる世界を全力で探しました。そして、既存の尺度に自分を合わせる必要はない、人間はもっと自由に生きることができるはずだと確信したのです。

 知識を獲得するということは、透明のガラス球体の内部に閉じ込められた自我が、カードを一枚一枚ガラスの壁に貼っていくことに似ています。僕はただこのガラス球体の壁に、習い覚えた模様を描き、それを説明し、解釈して来ただけだったのです。教育とは、カードを整理し分類する事務処理能力を身につけ、貼り付けた位置を正確に記憶することで世界を理解したつもりになることだと言えるかもしれません。それは外の広大な光に満ちた世界に気づかないようにするための罠であり、現実の世界そのものをシヤットアウトする高度に精密な体系なのかもしれません。

 この「設計変更」の時期、僕にとって最もインパクトのある言葉を発していたのが、小林秀雄でした。新潮社版の『小林秀雄全集・全12巻』を買い、隅から隅まで読みました。閉じ込められていたガラス球体を粉砕するきっかけになったのも、「美しい花がある。花の美しさなどというものはない。」という彼の短い言葉でした。そして、個人の世界の強さ、その深さを強烈に体験することで、個々の世界が孤立しているのではなく、無限に連続して広大な流れを形作っていることに気づいたのです。僕の意識の中に「歴史」が誕生した瞬間です。本を読むことで、人間の広大で深甚な世界にどっぷり浸かると、人間に対する「畏れ」が自然に生まれてきます。現代は、この「畏れ」の感覚が急速に失われている時代です。そうなると、言葉は重みを失い空中で瓦解するしかありません。言葉の瓦解は世界の瓦解を意味します。

 今この国では、アベノミクスの空騒ぎの陰で、根源的な矛盾がどんどん拡大しています。一人の人間の独自の世界が、ネット情報と市場の力によって潰されてしまい、本当にリアルな世界が価値を失っています。そもそも、政治家や経済学者が好んで使う「市場」とは何でしょうか?実は「市場」の趨勢を決定しているのは、金融市場で短期利ざやを漁ってひしめいている金融資本やヘッジ・ファンドの倫理なき大根役者たちなのです。彼らはちょっとした変動要因を探しては、狙いをつけてコンピュータ・プログラムを作動させ、株価の上げ下げを操作しています。その手伝いをしているのが、金融市場に寄生している格付け会社です。日本でも資金に余裕のある富裕層は、おこぼれに預かろうと投資に励んでいます。かくして、アメリカ発のグローバリズム=市場の自由化は、日本のみならず、世界的規模での富の偏在と荒廃をもたらしています。

 今僕たちが乗っている船は、沈むまでのごく短期間の航行に入っています。船に決定的な亀裂が入っていることは、多くの人はうすうす気づいています。にもかかわらず、「亀裂を修繕すれば大丈夫だ」とか「沈むときに怪我をしないですむ方法」とか「船の中で鬱病にならないためにはどうすればよいか」などといった類の本を読むことで、船にしがみついています。しかし、そこに救いはありません。新しい世界を開示する本とは、「この船を放棄しても大丈夫だ」「私たちはこの船を棄てる自由をもっている」という勇気と確信を与える本のことです。問題の解決策を具体的に示してくれたりはしません。しかし、自分がどれほどものを考えるときに不自由であったか、どれほど因習的な思考の枠組みに囚われていたかを痛感させてくれます。僕たち一人ひとりが抱えている、取るに足らない問題でも、それを徹底的に掘り下げていけば、世界全体のゆがみを反映する一断片に過ぎないということを教えてくれます。そういった本を読まないことで何を失うのかというと、知識や情報を失うのではなく、世界全体を丸ごと失ってしまうのです。

 話がそれました。小林秀雄に戻りましょう。彼は「書き出してみないと、自分が何を考えているかわからない」と言います。世界そのものは直接言葉にはなりません。だから間接的、断片的な言葉で世界を示そうとするのですが、発せられ、記された言葉は、常に伝えようとする世界とズレがある。このことに最も誠実に向き合ったのが小林秀雄でした。彼の文章は、石を前にした彫刻家が鑿をふるう瞬間に立ち会っているような、書いてみなければどんなものができあがるのか本人にも見当がつかない、そういう文章です。わかっていれば情報です。彼は情報伝達のために文章を書くことを最も忌避したのです。しかし、言葉が世界の重みと拮抗する時には、書いている本人も、今自分がどういう世界を開こうとしているのか良くわかっていない、というのが本当のはずです。 彼の文体が持つ切迫感は、一つの精神が、なにか懸命に一つの問題を追って格闘している、うまく言葉にできないその思考を必死に追いかけている、その過程から生まれています。僕たちが読む文章はその痕跡にすぎません。2年ほど前、小林秀雄の文章がセンター試験に出題された折、あまりの難解さに試験中に泣き出す受験生がいたと聞きました。このエピソードは、人間についての思考の衰弱をあらわすものです。箱庭的な受験国語の世界で、「論理的思考力」と銘打った読解のテクニックを磨いた受験生が、一つの世界を開示しようとして苦闘している文章を理解できないのは当然です。

 3.11以降、世界は変質しました。福島の原発事故は、この国の隠れていた社会と文化の根をあらわにしました。あったものがなくなったのではなく、もともとなかったのだということが突きつけられたのです。決壊したのは、豊かな資本主義、科学文明の進歩、明るい未来という幻想です。だから人々は、瓦礫となった世界を前にして、新しい価値を手探りすることからはじめなければならなかったのです。少数の人はその作業に取り掛かっています。その一方で、大部分の人は思考を放棄し、マスメディアとテレビが垂れ流す情報にコントロールされ、すべてをなかったことにしようとしています。しかし、絶望する必要はありません。バタフライ・イフェクトではありませんが、一人の人間が世界の見方や感じ方を変えれば、世の中はその分だけ変わらざるを得ません。一人の人間が独自の価値観を手に入れることで、少しずつ世界の色彩や明度は変わっていくのです。なぜなら僕たちの世界は、一人ひとりの個人の集合体なのですから。

 長くなりました。もうそろそろ止めにします。これ以上K君の貴重な時間を邪魔しては悪いからね。この文章を書くことで、若かった頃触発された思考が現在まで持続していることを確認できました。ありがとう。君は人文科学系のセンスと自然科学系のセンスの両方を兼ね備えた、将来が嘱望される若者です。K君に出会えたことは幸運でした。さあ、出発の時です。合格を心から祈っています。ボン・ボヤージュ(Bon voyage)!よい旅を!