未来塾通信51


二つの島をつなぐ(2014:7:13)

■2011年の6月、東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故の3ヵ月後、私は車で山口県徳山港へ向かった。一度この目で確かめておきたいことがあったからだ。徳山港から渡航船に乗り、目的地の大津島まで、一時間足らず。途中点在する島の港に立ち寄り、大きな買い物かごを背負ったお年寄りが船から下りるのを見送る。食料品をはじめとして生活に必要なものを買出しに行った帰りなのだろう。旅行者は私と妻の二人だけだ。午後の陽光が、静かな瀬戸内の海面に反射して拡散し、まばゆいばかりの光の海を進む。妻は「まるで瀬戸の花嫁の世界ね」とつぶやく。のどかである。できれば、老後はこんな場所で過ごしたいと思う。大津島は人口約400人。7つの集落があり、65歳以上の高齢化率が約70パーセントに達した過疎の限界集落である。


 大津島は、人間魚雷回天の訓練基地があった場所である。「回天」は、敗戦濃厚となった太平洋戦争の末期、“天を回らし、戦局を逆転させる”という願いを込めて誕生した特攻兵器である。魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりする。訓練基地が置かれたここ大津島には、全国から20歳前後の若者400名余りが志願し、毎日厳しい訓練を繰り返していた。


 昭和19年10月、劣勢の日本海軍は捨て身の一大決戦を挑む。フィリピンのレイテ沖海戦で、アメリカ艦隊に全戦力を突入させる。しかし日本軍は大敗北、連合艦隊は事実上壊滅した。この後回天は海軍に残された数少ない切り札として、強い期待を背負うようになる。


レイテ沖海戦から2週間後の12月8日、初の回天隊が出撃した。目標地域はアメリカの前進基地となっている、南太平洋のウルシーである。標的は環礁に停泊しているアメリカの艦隊だった。潜水艦が接近し、搭載されていた回天が次々と出撃した。しかし、目標に到達するのは至難の業だった。搭乗員には、詳細な地図も敵艦隊に関する情報も殆んどなかったからである。


昭和20年6月までに回天が撃沈した艦船は、アメリカ軍の資料によればわずか2隻。しかし日本軍はなお特攻を続ける。海軍軍令部総長は、御前会議で海軍は特攻精神に徹すると主張。特攻作戦は終戦まで続けられ、若い命が次々と犠牲になっていった。戦局を挽回するとうたわれた特攻兵器「人間魚雷回天」。作戦の開始から9ヶ月、回天で命を落とした若者は104名にのぼる。故障のため出撃できなかった隊員が、日本ほど人間の命を粗末にした国はないだろう、と言うのは当然である。


 コンクリートの残骸となった訓練基地に立ち、空との境が判然としない水平線を望む。台風が接近していたこともあり、白波が立ち、水平線はまるで日本刀の刃紋のように見える。私は訓練基地のすぐ前に広がる海を見て、当時の若者が自分の宿命にどのように向き合おうとしたのか、それを考えた。考えは祈りに変わり、祈りはやがて名状しがたい怒りへと変わっていった。爆薬を満載し、死を覚悟して敵艦めざして出撃して行った若者の覚悟は、父母や家族に当てた遺書の中に見て取れる。


 「お母さん、最後の書をしたためます。今日に至るまで、なんら親孝行らしいこともできず、お世話になるばかりでした。・・・・(中略)・・・・最期の御奉公する時節到来。靖国神社にて対面できることも、遠からぬ事と思ひます。兄は喜んで死んで行ったと、弟妹等にも言って下さい。では、今度靖国神社にての再会楽しみに待って居ります。」


 ふるさとを思い、父母に対する感謝の念をしたため、弟や妹を思いやる遺書は、涙無くしては読めない。しかし、涙にくれた後、私の心は妄想から覚めたかのように、妙に冴え冴えとしていた。彼らの遺書の中に、その覚悟とはうらはらに、歴史の大きな歯車に噛み砕かれる恐怖と絶望のうめき声を聞いたからだ。運命に慫慂として従った彼らの行動を、現在から見て批判することなど誰にもできはしない。同様にそれを美化することなどできる筈もない。彼らの死を美化し、政治的に利用しようとする人間を、私は心の底から軽蔑する。


 たとえそれが国を守るための戦争であっても、手塩にかけて育てた子どもに死なれることほど、親にとって悲しい出来事はないだろう。この悲しみが、何十万、何百万に膨れ上がれば、国家体制そのものが危うくなり、総力戦を遂行することはできない。


そこで、この「悲しみ」の感情を抑圧するため、国家的な規模での「物語」を捏造する必要が生じる。死地に赴く兵士を勇気づけ、自らの「弱さ」を恥じ入らせ、「男らしさ」を最高の美徳として称揚する。そればかりか、遺族が、愛する者の死を喜んで受け容れるという倒錯した感情を生み出す必要がある。この捏造された物語に「愛国心」という名称を与えることで完成したものこそが「靖国精神」である。そして今また、敗戦後69年が経った時点で、この「靖国精神」が姿を変え、表舞台に出てきて復権を果たそうとしている。


 大津島から周防灘をはさんで、距離にして30km。晴れていれば見える距離に、祝島がある。中国電力上関原子力発電所の建設予定地から海を挟んでわずか4kmの位置にあり、生物多様性の宝庫である。誇り高い島の人々は、この島を子どもや孫たちに残そうと、中国電力の札束攻勢や暗闇にまぎれた暴力的なやり方に屈服することなく、原発の建設に反対するデモを32年間続けている。1100回を超えるデモの担い手は、80歳近いユーモアあふれる地元の女性たちである。


詳しくは、ドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』『祝(ほうり)の島 −原発はいらない!命の海に生きる人々』や、『原発をつくらせない人びと−祝島から未来へ』(岩波新書)に書かれている。


 ところで、読売新聞は、原発事故からわずか半年後の、2011年9月7日、「エネルギー政策・展望なき『脱原発』と決別を」と題する社説で、次のように述べた。

 ― 日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ ―


 3・11以前に、「原発は潜在的核武装目的で保持されている」とでも言おうものなら、頭がおかしいのではないか、と相手にされなかったはずである。しかし、使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを抽出し、これをミサイルに搭載すれば、核弾頭付きロケットを製造できる技術を日本はすでに持っていたのである。それは公然の秘密だった。


スリーマイル島での原発事故以後、米国は日本列島を「プルトニウム製造工場」として利用してきた。このことはNHKのドキュメンタリー番組でも明らかにされ、自民党政権は、原発を潜在的核武装と考えて保持していることを認めた。そして、「日本における原発の父」正力松太郎が社主を務めていた読売新聞が、原発推進の根拠として、社説で公式に表明するところまで来たのである。原発がコストの面でも技術面でも破綻していることが明らかになった以上、原発を維持する本当の目的があらわになるのも時間の問題だったのである。


その背景には、核武装をしなければ国際社会において発言力がなく、二流国のままであるという、愚かで屈折した被害者意識・自己卑下がある。社説は、「核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努めるなかで、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」と述べているが、これは単なる思い込みか願望であって、「事実」ではない。それどころか核保有国は次々に増え、北朝鮮まで核実験をするようになったというのが「事実」である。私が「靖国精神」が姿を変え、表舞台に出てきて復権を果たそうとしている、と考える所以である。


 前途ある若者を、「回天」と命名した特攻兵器に乗せ、敵艦めがけて体当たりさせた勢力は、敗戦後を生き延び、「原子力の平和利用」という欺瞞言語を駆使して、祝島の島民を苦しめ、福島第一原子力発電所の事故などなかったかのように、原発の再稼動を推し進める勢力である。


そして、原発の再稼動を推し進める勢力は、「政府が右と言ってるのに、左と言うわけにはいかんでしょう」という人間をNHKの会長に据え、立憲主義を破壊し、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した勢力でもある。何のことはない、「戦後レジームからの脱却」を叫び、「美しい国」を標榜しながら、アメリカの世界戦略に深く与し、逃れようもなく対米従属の深みにはまった、歴史的想像力を欠いたおバカ勢力なのである。大津島も祝島も安倍首相の地元である。これは単なる偶然であろうか。