未来塾通信45


こどもたちは何を学ばされているのか

■現時点で、センター試験まで30日、公立高校の入試までは80日余りとなっている。塾にとっては、冬期講習直前の忙しい時期である。私は塾教師なので、保護者の切実な要求にこたえなければならない。この点をないがしろにして抽象的な教育論を語ることなどできない。原理的なことを追及していくときは、いやそういう時にこそ、まっとうな日常の生活意識や生活感覚を絶えず繰り込んでいく必要があるのだ。

逆に言えば、教育について夢や展望を語るのなら、受験という現実的で切実な問題が差し迫っている時こそ、その現実の力に拮抗するかたちで語るべきだと思う。こどもたちの点数を1点でも伸ばしてやらなければならない状況の中でこそ、こどもたちは何を学ばされているのか、という問いは意味がある。

 この問いに答える前に、私たちの生活の中には、およそ市場原理になじまないものがある、ということを確認しておかなければならない。ここでいう市場原理とは、あらゆるものを金銭的価値に換算して、それを自由競争の淘汰圧にさらすことを意味する。

アダム・スミスの「神の見えざる手」にゆだねるということらしい。しかし、当のアダム・スミスは『道徳感情論』の中で、道徳なき人間に市場をゆだねると、国家は無秩序状態に陥ると警告を発している。にもかかわらず、現在の経済学は能天気にも「神の見えざる手」を信じて、大資本が弱小資本をのみ込むのを当然だとみなしている。経済学者の言説が信用できない所以である。私が多くを学んだ、日本人経済学者・宇沢弘文氏およびアジア初のノーベル経済学賞を受賞したインドの経済学者アマルティア・セン一人が、倫理なき経済学に敢然と挑戦している。

 市場原理にゆだねてはならないものとは何か。それは私たちの命に直結するもの。水、食料、医療、そして精神的な存在としての人間を育む文化。その象徴である言語。そしてそれを次世代に伝えるための教育である。

 言語や教育を市場原理にさらすなどということは、一昔前には考えられもしなかったことである。しかし、「英語教育」の名のもとに日本語教育は片隅に追いやられようとしている。まるで英語が話せなければ、これからの世の中では生きていけないとばかりに・・。その結果「聞き流すだけで英語が話せるようになる」といったまことしやかな宣伝を信じる人々も出てくる。

なんのことはない、あらゆるものが金儲けの手段にされているのだ。あるいは、全国のこどもたちに同じテストを受けさせ、幼いころから、こどもたちを点数や偏差値に象徴される線型の序列性の上に位置づけようとする。結果を学校ごとに公表して競争させ、学校のみならず地域までも格付けしようとしているのである。しかし、塾にとってはこれほどありがたい商機はない。学校の下請けであろうが孫請けであろうが、要するに人々の耳目が点数や偏差値、ランキングに集まれば集まるほど潜在的需要を喚起できるのだから。教育を市場原理にさらすのに最も貢献しているのが塾産業であることは疑う余地がない。

 私は時々授業で文明と文化の違いについて生徒に尋ねることがある。たとえば、家電や車は文明か文化か。科学技術の進歩を支える数学、物理学、工学はどうか。医学はどうか、などと。両者をはっきりと区別するのは難しい。車は機械だとしても、それを生産する国の文化を多少なりとも反映しているからだ。

 そこで区別の基準となるものを提示する。軽々と国境を越えて世界に広がるものを文明と呼び、おいそれとは国境を越えられないものを文化と呼ぶのではないかと。たとえば、日本語は家電と同じように簡単に国境を越えられるかと。グローバル化とは、本質的には簡単に国境を越えられないものを、市場原理の力で無理やり越えさせようとする経済的な試みのことである。いや、試みなどという生易しいものではなく、策略だといったほうが正しい。

その結果、地域の歴史や文化はなおざりにされ、ローカルカラーは失われ、精神の中央集権化は進んでいく。地方で就職のない若者は、東京一極集中の風潮に存在の根を奪われ、大都市へと出て行く。そこでわずかばかりの給料をもらい、やりがいと健康を代償として払いながら使い捨てられる。少子化が加速するのも当然である。

 グローバル化=文明化=善なのか。この問いに答えることなしに、こどもたちは何を学ばされているのか、という問いに答えることはできない。なぜなら、私は日々こどもたちに勉強を教えながら、自分の教えている知識が、将来のこどもたちの生活や人生を豊かにすることに結びついていると実感できないことが多いからだ。

 教科書であれ問題集であれ、どうでもいい知識や問題が多すぎる。まるで無駄なことを、大部分の親や教師たちは将来のために必要だと言い聞かせて、こどもたちの貴重な人生の時間を埋めている。そして、親たちは、単に学力ヒエラルキーの少しでも上位に自分のこどもを位置づけるために情報収集に励み、他人のこどもと比較し、自分のこどものランクがより低いことがわかればまるで自分が否定されたかのように不安になる。

しかしこれは、親たちが自ら望んでそうしているのではなく、そう感じるように仕向けられているだけである。点数や偏差値といった線型の序列性の上にあるのは、こどもの「能力」といった抽象化された概念だけで、こどもが成長したという手ごたえはない。親はこどもとじかにぶつかり合うことを避け、いわば、志望校の合格判定が印字されたペーパーを挟んで向かい合っているのだ。

 私は塾で、やらなくてもよい問題、やれば逆に思考力を奪う問題を排除しながら、応用範囲の広い基礎的な問題に絞って解説をしている。それでも、こどもたちは難しいと言う。なぜなら、一定の公式や概念を覚え、それを具体的な問題に当てはめて答えを出す訓練ばかりさせられていれば、応用力などつくはずがないからだ。知識だけではなく応用力を試す問題とは、与えられた条件を組み合わせ、そこから一定の法則を導き出すといった帰納法的な発想を試す問題のことである。問題解決能力と言い換えてもよい。しかし、すべてのこどもに机の上の記号操作だけで、こういった能力をつけることが可能だろうか。いや、そもそも必要なのだろうか。

 私の実感から言えば、すべての生徒に同じ問題を解かせるのは、難易度から考えて、中学2年生の後半くらいから限界に達する。それ以降、高校卒業まで、あるいは名ばかりの大学で、こどもたちや若者は何を学ばされているのか。現行の教育システムは役目を終え、こどもたちの関心を引くにはあまりに古めかしいものになっている。重要なのはIT機器を使って、さも教え方が進歩しているように見せかけることではなく、教育システムのラディカルな見直しと、中身そのものの選別と徹底的な洗い直しなのである。

 現在の文部科学省の教育カリキュラムは、グローバル化する社会に適応できる人材をふるいにかける抽象的なモノサシとしてだけ機能している。その陰で膨大な数のこどもたちが犠牲になっているのではないか。間尺に合わないとして切り捨てられたこどもたちの生きる場所はあるのだろうか。この疑問に答えを出すためには、新しい教育システムを構想しなければならないのだが(そのグランド・デザインを私は持っている)、ここでは単純素朴なイメージを提出するだけにしておこう。

 小学校1年生から中学3年生までの義務教育では、いわゆる教科の授業は午前中だけにする。基礎的な読み書きの学力をつけることに絞って、自動車学校と同じような単位制にする。本人または保護者の申告によって落第も認める。焦点を絞って集中的にやれば、おそらく今のだらけきった日常の中での学習より、はるかに充実したものになるはずである。午後は必修科目としての農業実習である。グラウンドを農地に変え、土の作り方、種の撒き方、水のやり方、作物の種類や作り方をゼロから教える。年に1回、地域の人を招いて収穫祭を行い、地域の最大の催し物とする。校舎の設計もそれに見合ったものにする。例えば、鉄骨で耐震補強をした醜いコンクリートの校舎ではなく、建築家の坂茂(ばんしげる)氏が作る紙管を用いた校舎や図書館などはどうだろう。避難所としても使えるし、地震で建物が倒壊して死人がでることもなくなる。リサイクル可能で、ローコストでできる。なによりこどもたちの感性を育むに違いない。ちなみに、坂氏は大分県立美術館の設計者である。(興味のある方は是非、You Tubeで『TED:日本語: 坂 茂: 紙で出来た避難所』を検索してみて下さい。英語の勉強にもなります。)

 サッカーや野球をしたいこどもは民間のクラブチームに入ればよい。音楽や美術を専門的にやりたい人は民間の専門学校に通うこともできるし、現にそうなっている。

 そして、15歳で卒業するとき、大人はこどもに尋ねればよい。「君は将来何になりたいの?」「うん、俺、へただけどミュージシャンになる。心配しなくていいよ。食い物の作り方は、ばっちしマスターしたから、食ってけるよ」

 人間は生活を脅かされるからこそ権力者の言うことに従うのだ。このシステムは権力者の最も恐れるシステムだろう。ちなみに、権力者は、私たちの隣にいるごく平凡な人間の思い込みによって支えられている。私たちが勇気を持って踵を返せば、かれらは単なる裸の王様だということがわかる。

 あまりに奇想天外の話だろうか。システムを変えれば、自分の能力を生かし、やりがいのある仕事に就いて生きていけるように世界を変えることは可能である。私の教育についてのグランド・デザインは近いうちに発表したいと思っている。そこでは、グローバルエリートのための教育システムにも触れるつもりだ。

 長くなったのでそろそろ終わりにしたい。イージス艦1隻で2,000億円以上かかっている。東京オリンピックのためにプールされているお金は4,000億円ある。合計6,000億円である。安倍首相の言う「積極的平和主義」などという言葉にだまされて、戦争経済をまわすために税金を使うより、6,000億円あれば、私がここで描いて見せた学校が300校以上できる。これこそが平和の礎を築くということである。敗戦のトラウマを引きずり、加害者なのに被害者意識を肥大化させ、歪んだナショナリズムを利用して権力の座を確保しようとする愚かな政治家の言いなりになってはならないと思う。しかし、それを実現するためには、この国は歴史上かってない破局を経験する必要があるのかもしれない。