未来塾通信44


歴史の分水嶺 - 2

■2013年夏の参議院選挙は、後世の歴史家から必ずや「歴史の分水嶺」であったと評価されるだろう。もっとも後世の歴史家なるものが生きていればの話だが。選挙やデモは民主主義社会においては国民の意思を表明できる重要な機会だと思う。しかし、「民主主義社会においては」という前提が実質的に完全に骨抜きにされていたとすればどうか。選挙は単なる儀式となり、デモは復興庁の参事官であった水野靖久氏が言うように「左翼のクソども」が行なう憂さ晴らしだとみなされてしまうだろう。安倍首相自身、街頭演説の際、車の上から、TPPに反対する人たちに向けて、「選挙妨害」「左翼の人たち」「恥ずかしい大人の代表」だと決め付けている。7ヶ月前の衆議院選挙の際、維新の会の橋下徹代表が、震災瓦礫の焼却に反対する市民に対して「いつからこんな勝手な国民が増えたのか」と挑発したのと根は同じである。橋下氏は瓦礫の焼却について正確でまっとうな知識を持つ新潟県の泉田知事の爪の垢でも飲んではどうか。

しかし、政治家達の歪んだ歴史認識、あまりに幼稚な政治意識をあげつらったところでいまさらどうしようもない。「歴史の分水嶺」とは何かという問題に戻ろう。端的に言って、今回の選挙を境に国民が「殺す側」と「殺される側」にはっきりと腑分けされるということである。日本の歴史上かってなかったことである。あるいは、福島第一原子力発電所の事故によって日本という国家の滅亡のプロセスがはっきり見えているにもかかわらず、それを座視するかどうかだ、と言い換えてもよい。現に脱原発を決めたドイツですら、放射性廃棄物の処分をめぐって完全に行き詰まり、原子力産業は「着陸する飛行場がないまま飛び続けている飛行機だ」と言っている。日本国民は、尾翼が燃えているにもかかわらず、墜落するまで飛び続けるしかない飛行機の乗客である。不時着するしかないが、乗客の命はパイロットの腕にかかっている。すべての乗客の命は救えない。必ず犠牲者が出る。ましてや、パイロットの判断力、決断力がお粗末で、乗客の命より航空会社の利益を優先するように教育されていれば、生き残るのは奇跡に近くなってくる。

「殺す側」と「殺される側」に分かれるなどと、何を大げさな、気でも違ったのかと思われるかもしれない。しかし、言葉を正確に使おうとすれば、こう表現するのが最も実態に即していると思う。もちろん「殺す」というのは、直接的・物理的な力によって相手を殺すのではなく、合法的に行なわれる緩慢な殺人を意味する。反対する多くの国民の意思を無視して強行される原発再稼動による破局的な事故。福島第一原子力発電所から漏れ続ける放射能による慢性被曝。さらには教育格差、学歴格差、文化資本格差、情報格差といった重層的な格差の結果としての貧富の格差、収入格差。あるいは、人間の尊厳を剥奪され、誰からもかえりみられなくなった結果としての自死である。

「殺す側」は豊富な資金力と権力で政治家を意のままに操り、自分達に有利な調査・研究をしている学者を集め、客観性・科学性を装った情報を世間に向けて垂れ流す。マスメディアはそれを批判するどころか、巨大スポンサーのご機嫌を損ねることを恐れ、自己規制という名の報道管制を敷く。

では、「殺す側」とは誰か。原子力を推進する利権集団、いわずと知れた原子力ムラである。原発に関係する電力会社、プラントメーカー、ゼネコンなどの業界団体、経済産業省をはじめとする監督官庁、さらに原子力を推進する研究者やマスコミを指す。その住民が利権にしがみつき、独善的・排他的であることや少数であることから、ムラと呼ばれている。ある国会議員の試算によると、原子力産業にかかわる人口に平均世帯人員2、62を掛けて約70万人になるという。今、日本の人口は1億2700万人であるから、国民全体の人口から見れば0、6%にも満たない。1%以下なのである。この少数の利権集団が、官僚制度や政治家をうまく使いこなして、原発行政を推進している。人々の反対の声は彼らには届かない。なぜなら彼らは自分の地位や利益を脅かす発言や行動を完全に無視できるように教育されているからである(このメンタリティーについては後日改めて分析したい)。反対派の市民の声は、推進派が中央省庁や業界団体に作り上げた事務局の広報機能ほどには、政治家に対して影響を及ぼせないのである。これが官僚依存体質の本質なのだ。

原発は市場経済においてすでに淘汰されている遺物である。日本が本当の意味で経済成長したければ、一刻も早くこの遺物と縁を切らなければならない。さらに原発はフィードバックが不可能な技術である。通常の技術であれば、何か事故があればその原因を究明し、その知見を次の技術開発に生かせる。そうやって技術は進歩してきた。にもかかわらず、福島第一原子力発電所の事故が示すように、原発は事故が起これば近づけない。近づけないからどんどん壊れていく。汚染水のタンクは日々増え続け、膨大な量に達し、高濃度汚染水は海に漏れている。恐らく東京電力もシジフォスの神話的状況を目の当たりにして途方にくれているに違いない。収束どころの話ではないのだ。こんな技術がいったい他にあるだろうか。原発作業員に基準をはるかに超える被曝を強制して、私たちの生活は維持されている。

「原発がなくなれば、電気が足りなくなる」というのはデマであることがはっきりした。「原発がなくなれば、電気代が上がり、日本の経済状況はさらに悪くなる」と言うのもウソである。事故リスク対応費用や最終処分費用、事故の賠償費用を入れれば原発のコストは天井知らずで、とても算出できるものではない。政府が原発に見切りさえつければ、企業が持っている発電設備がフル稼働し、水力、火力、石炭火力、ガスコンバインドサイクル、太陽光発電の技術が一気に加速し、日本の経済に好影響を与えることはまちがいない。日本はそれだけの技術力を持っている。「雇用が失われる」というのも誤解である。原発がゼロになっても、ただちに原子力産業の雇用がなくなるわけではない。廃炉事業だけでも数十年かかるといわれている。すでに脱原発を決めているドイツでは再生可能エネルギー関連の雇用が6年間で16万人から37万人と20万人増え、廃炉が決まったオブリハイム原発では、廃炉作業のためにむしろ雇用は増えている。立地自治体の経済問題を回避する方法もある。交付金を続ければよい。ただし、原発を推進・継続するために交付するのではなく原発をやめるための新たな交付金制度を設ける。地元は、交付金を受けながら、環境再生や経済振興を図ることができる。

なお、原発から出るプルトニウムは核兵器の材料になるので、核武装という選択を可能にする。そのことで外交交渉を有利に導くことができるなどという奇想天外な意見を述べる政治家(ほとんどが自民党員であり維新の会の中にもいる)や評論家もいる。櫻井よしこ氏などが例のクールな顔で喋っているのを見て、氏はカルト宗教の信者になったのかと思ったほどである。ちなみに、氏は子どもたちの年間被曝許容量を20ミリシーベルトに引き上げるべきだとあちこちで発言している。この種の人たちは基本的にどうしようもないくらい無知なので、まともに相手にする気も起きない。原発は抑止力になるどころか、テロの標的とされ、ミサイルを打ち込まれれば万事休すだとだけ指摘しておく。相手国からしてみれば地上戦の必要もなく、ただ精度の高いミサイルさえ持っていればよい。一瞬のうちに決着はつく。

残る問題は、電気事業法で定められている総括原価方式をどうするかである。電気を売れば売るほど利益が増え、経費削減の努力も必要ない。研究開発から廃棄物の処理まで、普通の企業なら税引き後、利益から捻出しなければならない費用が国民の負担になる。この資本主義の大原則と矛盾するような不公平きわまりない総括原価方式がある限り、0、6%の少数者は合法の名の下にやすやすと利益を確保できるのである。原発事故後、法を無視して、子どもたちの年間被曝許容量を20ミリシーベルトに引き上げるようなことを平気でしておいて、自分達の経済活動は合法だと居直る。「巨大な犯罪ほど合法の名のもとに行なわれる」というのは本当である。彼らは発送電分離と電力の自由化には及び腰である。これを行なえば戦前のように、全国津々浦々で小規模の発電所が稼動され、市場メカニズムに則り効率的な市場が形成されるからである。効率的な市場には多くの企業が参入してくる。その結果自分たちの分け前が少なくなる。だから、経済原則からすると非効率この上ない歪んだ構図を守り抜こうとする。彼らは非効率であることを好むのだ。サイレントマジョリティーである国民は無力感を抱くように仕向けられている。とりあえず、この構図に抜本的なメスを入れられる政治家を選ぶしかない。しかし、圧倒的な多数派である国民が無力感から抜け出せば、この国は一挙に変わる可能性がある。

尖閣諸島・魚釣島の面積は3、8平方キロ。福島の原発事故で失った国土は飯舘村だけでも230平方キロ。その他の地域を合わせれば尖閣諸島の100倍以上に及ぶ。この国は有史以来初めて、自ら「国土を失い」「民を失った」のである。今、政治家が命をかけなければならないのは、安手のナショナリズムを利用してこの深刻な事実から国民の目をそらすことではない。福島の原発事故では死人は出ていないなどとうそぶくことでもない。日本を壊滅に導く可能性のある福島第一原発の収束のために世界中の英知を結集することであり、路頭に迷う国民を救済することである。経済の再生はその後のことである。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。今回の選挙、私はいくらお金を積まれても、自民党にだけは投票しない。それが原発事故で避難している15万人以上に及ぶ被災者に対する人間としての最低限のマナーだと思うからだ。