未来塾通信40


脱出口を捜し求めて

■日本列島は世界で最も美しく豊かな自然に恵まれている。この自然は単なる自然ではなく、私たちの先祖が汗水たらして知恵を絞り、創り出してくれた貴重な自然、つまり農学者四出井綱英氏が命名した「里山」である。

 そこに点在する農家とその周辺に広がる景色は、近代建築群のように技巧的でもなければ、特別な美学が披瀝されているわけでもない。季節のめぐりとともに繰り返される生活の中で培われ、大切に守られ受け継がれてきた、温かい景色である。そこには生活の楽しみと、食卓の必要を満たす無心の造形が見られる。その一つ一つが生活の場である住居とその周辺に広がっている。

 自然は人間が働きかけて初めてその富を開き、恵みを分け与えてくれる。その見返りとして、自然はじつに細かな配慮を人間に対して要求するのである。自然はそっと、ささやくように語り掛けてくる。だから人間はいつも、細心の注意を払い、その声に耳を傾けなければならなかった。命と生活を支える恵みを得るために、自然の声を神の言葉と信じ、頭をたれて自然の要求を聞き、命令に従おうと勤めてきたのだ。日本の文化はまさにここを淵源として発祥したのである。これが自然と人間の掟である。この掟を無視して、人間が身勝手な考えを押し付けてしまえば、広大な森も肥沃な農地も一瞬にして消え去る。文明は森を消費しながら発展し、森の衰弱とともに没落することを忘れてはならない。「思想」とは、つまるところ人間の自然に対する態度そのものではないのか。

 3・11以前、私は、もし日本が世界平和に貢献できるとしたら、里山を中心として生み出された豊かな歴史と文化が中心になるだろうと考えていた。なぜなら、核兵器による最終戦争の可能性、原発事故および高レベル放射性廃棄物による地球環境汚染、人口爆発、食糧不足、民族紛争、テロといった現代の私たちが直面しているさまざまな困難は、近代的枠組みそのものが生み出した出口なしの困難だと考えていたからだ。そんな折、福島第一原子力発電所の事故が、東北地方を中心とした東日本一帯の数限りない人々の生活と命を危険にさらし、私たちが先祖から受け継いできた美しい国土を放射能で汚染してしまったのである。これがカタストロフィーでなくて何であろうか。このような愚行を犯した人間たちを私は憎悪する。

 あまつさえ、事故の情報を隠蔽し、「放射能を正しく怖がる」「放射能よりタバコのほうが身体に悪い」などという欺瞞言語を駆使して事故を小さく見せようとしてきた東京電力・マスメディア・医者・学者・経済評論家(挙げればきりがないが、特に池田信夫氏とその取り巻き)、そして瓦礫を全国にばら撒き、焼却し、汚染を拡大させようとした細野豪志原発事故担当大臣。復興予算を官僚の意のままにばら撒いて恥じることもなく、こどもたちを放射能汚染地帯に放置している民主党政権。私はこういう人々を心の底から軽蔑する。この期に及んで民主党に投票する人は、増税もやむなしとする世間の空気を読むのが得意なだけの自称「経済通」か、目の前の現実すら見えていないのに「政策が現実的かどうか」を唯一の判断基準にしている都市部の中間浮遊インテリ層であろう。信じがたいことだが、かれらは「決断」などという言葉に手もなくだまされるのだ。

 原子力政策を国策として推進してきた自民党政権は、原発事故の責任をとることもなく、(責任の90%以上は自民党にある。民主党は運が悪かっただけだとも言える。だから自民党と二人三脚で原発を推進してきたマスメディアも責任について言及したがらない)責任を民主党に押し付け、憲法を改正し、国防軍を創設することを勇ましく宣言している。その陰で自分たちの最大のパトロンである原発の再稼動は織り込み済みなのだ。その自民党総裁安部晋三氏の著書の題名は『美しい国へ』である。これはギャグであろうか。それとも私は悪い夢でも見ているのだろうか。

 『武装解除−紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)の著者でアフガニスタンやその他の国で紛争処理を指揮してきた東京外国語大学教授の伊勢崎賢治氏は次のように述べている。

 ー 現在の政治状況、日本の外交能力、大本営化したジャーナリズムをはじめ日本全体としての『軍の平和利用能力』を観た場合、憲法、特に九条は、愚かな政治判断へのブレーキの機能を期待するしかないのではないか。日本の浮遊世論が改憲に向いている時だから、敢えて言う。現在の日本国憲法の前文と第九条は、一句一文たりとも変えてはならない。?

 これが正気の議論というものである。紛争の現場を経験したことのない「おぼっちゃま」政治家には第九条の持つリアリティーなど決して理解できない。そして極めつけは今回の自民党のキャッチフレーズ、『日本を、取り戻す』である。もちろん、自分たちの利益のためには国民の暮らしを破壊し、国土を喪失させることなど何とも思っていない原子力ムラという利権集団と、そこから限りない恩恵を受けてきたマスメディアを始めとする巨大な勢力から、日本を取り戻さなければならない。

 日本維新の会の代表代行である橋下徹氏はテレビタレントとして活躍した知名度を生かし、小泉純一郎氏を髣髴とさせる歯切れのいい弁舌と断定口調で選挙民の心をつかむかに見えた。しかし、私は彼こそが日本の政治の茶番劇の幕を切って落とした張本人だと感じている。大飯原発3・4号機の再稼動に反対のポーズをとっていたかと思えば、関西電力に譲歩し、夏の間だけの限定的再稼動を認めてしまった。季節は秋を通り越して冬である。橋下氏は自分の言葉を実行するために関西電力に原発の運転停止を求めたのか。そもそも、今年の夏、電力不足になることはなかった。電気は十分足りていた。そんなことは調べればすぐにわかることだったのである。それが証拠に関西電力は大飯3・4号機を稼動させたあと8箇所の火力発電所の運転を止めていたのだ。この事実だけを見ても、橋下氏には本気で原発の再稼動を止める意志などなかったことがわかる。 

 広瀬隆氏の新著『原発ゼロ社会へ!新エネルギー論』(集英社新書)に書かれてあるとおり、私は電力会社や民間会社のホームページにアクセスし、原発10基分に相当する電力を生みだせるエンジン発電機が生産されていることを確認した。電気は余っている。これから先、日本は電力不足に陥ることは決してない。原発を止めれば江戸時代の生活に戻ってしまうと恫喝していた政治家や経済評論家は、本来ならおのれの無知を恥じて世間に二度と顔を出せないはずだ。橋下氏によれば、2030年代までに原発はフェードアウト(ごまかしのために英語が使われている)させるというのが維新の会の公約だそうだが、民主党の公約とどこが違うのか。案の定、原発推進派にして核武装論者である党首の石原慎太郎氏に「原発ゼロは暴論だ」と撤回を迫られ、公約ではなく目標だと言い抜けた。

 橋下氏はある時は「政策を語れない政治家が多すぎるんですよ」と言ったかと思えば「政策なんかね、皆さん、どうでもいいんですよ!要は実行できるかどうかなんです」と言う。みんなの党との選挙協力では「候補者は最後はじゃんけんで決めればいいんです」と言ってマスコミに批判されると「言葉のセンスがないですねえ。とにかくそういう覚悟で臨むということなんです」と弁解する。言葉のセンスが欠けているのは橋下氏自身である。なぜなら、維新の会の候補者を単なる数合わせのための駒として利用することを白状してしまったのだから。哀れな橋下氏はそれでもなんとか第3極としての存在感を示そうともがくが、党首の石原慎太郎氏は「選挙後に自民党と合流する」と発言して、幹事長の平松氏が慌てて否定する始末である。またある時は「最低賃金制を廃止する」と宣言して批判されると「市場メカニズムを重視した最低賃金制度への改革」と文言を修正してごまかす。挙句の果てに、石原氏に「竹中平蔵が橋下君にとって神のような存在になっている」と内幕を暴露される始末である。

 橋下氏は石原氏と合流するべきではなかった。みんなの党と合流していれば官僚を少しは慌てさせることができたのかもしれない。石原氏の盟友「立ち上がれ日本」の「老人」たちを拒否しながらも、石原氏との合流を最後まで望んだ橋下氏の真意はどこにあるのだろうか。テレビタレント出身の氏は選挙における知名度の威力を誰よりもよく知っている。だから同じく知名度のある石原氏との合流を望んだのだとも考えられる。橋下氏の意識はおそらくそうであっただろう。しかし、私は橋下氏が「靖国精神」の権化である石原氏に吸い寄せられていった本当の原因は、橋下氏自身の無意識の渇望にあると考えている。東大や慶応大学の医学部の「優秀」な若者が、オウム真理教の教祖・麻原彰晃に帰依していったように。具体的な内容は次回の通信に譲る。

 とまれ、かくのごとき次第で私はいつものように投票先を消去法で選ぶことになった。今回は未来の党に投票するつもりだ。わけ知り顔の現実派や経済通に嘲笑されても、私の価値判断では、まずこどもの未来を守りたい、そして冒頭に書いたように里山に生まれた日本の文化と歴史を守りたい、そのためには原発の再稼動を阻止する、というのが最優先事項だからだ。

 私たちが作りだしてしまった放射性廃棄物の量は、もはやどう処理すればいいのか途方にくれるほどに多い。それ以上に、野田首相が早々と終息宣言を出したにもかかわらず、福島第一原子力発電所の事故の処理は、一体、何十年かかるのか、そもそも可能なのか、まったく予断を許さない。そして放射性廃棄物と事故の処理責任は、まだ生まれていない世代にまで背負わされてしまったのである。これほどの罪を犯しておいて、いまだに54基の原発が日本列島に存在し、再稼動の順番を待っているなどということ自体が、私には信じられない。電気は十分すぎるほどあるにもかかわらずである。これを不道徳と言わずして、何を不道徳と言うのだろう。今度の選挙は私たちが、未来の世代と世界に対して、倫理的に生きるかどうかを決断する最後の機会である。