未来塾通信39


『原発危機と「東大話法」−傍観者の論理・欺瞞の言語』・その後

■本書が出版されてからすぐに取り寄せ、何度もうなずきながら一気に読んだ。あれからはや9ヶ月が過ぎた。前回は、一人でも多くの人に少しでも早く本書を読んでもらいたいと思い、読後感を一気に書いた(未来塾通信34)。今回再読してみて、著者の安冨氏と問題意識を共有していることがわかり、あらためて深くうなずくことが多かった。

 今、私の手元に、『魂の殺人?親は子どもに何をしたか』(A・ミラー著、山下公子訳:新曜社)の初版本がある。塾を始めた1983年の出版である。この年、私はこの本を繰り返し読み、塾教師として自分にできることは何か、という問いに答えようともがいていた。私の原点となった一冊である。安冨氏がこの本の著者に注目していたこともあって、書棚から取り出して久しぶりに読んでみた。背表紙は赤茶け、いたるところに赤線が引かれ、感想が書かれている。読み進むにつれて、30年前の懊悩がまざまざと思い出された。

 すぐれた本は「母港」のようなものだと思う。いつも同じ場所にあって、船の出入りを見守っている。そういう「定点」があると、人間は自分が何ものなのか、どこへ向かっているのか、どれだけ成長したのか、あるいはどれだけ道を踏み外し後退したのかを測定できる。私は塾をそういう場所にしたいと考え、「燈台守」になりたいと願ってきた。それにしても、読書は一回目よりも二回目のほうが、はるかに多くの実りをもたらすということを実感したひとときであった。しかし、その話はまた後日ということにしよう。

 さて、その後、安冨氏の著作に対する正当な評価はなされたであろうか。『東大話法』というタイトルを、スノッブだとかキャッチーだと感じている人もいるようだ。経済ヒョーロンカでブロガーの池田信夫氏は「東大話法などというわけの分からないタイトルをつけた、レベルの低い本」だと揶揄した。しかし、この本のタイトルに『東大話法』という言葉は欠くことができない。なぜなら、日本の近代化の過程で、東大を頂点として生み出された官僚文化は、つまるところ『東大話法』という名で定式化される欺瞞言語の集大成だったのではないか、という安冨氏の問題意識を最も的確かつシンボリックに表しているからである。原発危機は、教育の名の下に培養された官僚文化が、日本の支配層の知的振る舞いのすみずみにまで菌糸のごとくはりめぐらされていることを白日の下に晒した。安冨氏の批判は、原発危機を生み出した官僚社会の病巣を鋭くえぐっている。真実を隠蔽する言葉のゆがみを正すことなしに、人間は、みずからの生を生きることも、他者の痛みに共感することもできない。本書は、近代の桎梏から自由になり、新しい生を切り開いていこうと考える人に、避けては通れない問題を提起している。是非、一読を薦めたい。

 同じ問題意識を九州大学准教授の古賀徹氏が、図書新聞の2012年・上半期の読書アンケートの中で、より的確に表現しているので、以下に引用したい。

 「官僚・技術官僚がこの国の病巣のひとつだとするならば、そうした官僚たちを生産している大学はさしずめ病原菌の培養工場ということになろう。安冨歩『原発危機と「東大話法」?傍観者の論理・欺瞞の言語』(明石書店)は、知識によって武装した自我という病気の在処を指し示す。その自我は、お前は知らないが俺は知っている、ということを承認させる手段として知識を用い、いわゆる「素人」を煙に巻き、決定権を奪い、見下すのである。深刻なのは、そうした知の一連の振り回しこそが「学問」だと教え込む装置に大学が成り下がっているということだ。自分の外部に真理の体系が存在し、それを摂取し、その近接距離でもって人々に対して威張る、こうした「魂の植民地化」構造の起源は、おそらく日本の近代そのものに求められるべきだろう。こうした植民地化は自我の疎外と深く関わっている。知が自己を開放する手段ではなく、深く疎外されたナルシシズムの防壁と化すとき、自己を開くときにはじめてきらめく真理に奉仕するはずのいかなる対話も、いかなる反証も、いかなる工夫も試みも、人間を序列化する装置に踏みしだかれてしまう。こうした言語の堕落、未成年状態への退行に対して哲学はいかに戦うことができるだろう。これはまちがいなく日本の哲学の問題なのだ。」