未来塾通信37


狂気の時代を生き延びるためにて

■近代という時代は、深層に、オウム真理教に代表されるようなカルト的荒唐無稽な幻想や、抑圧された残虐性が、マグマのように噴出する機会を絶えずうかがっている構造をもっている。とりわけ格差社会の内圧が高まり、臨界点を超えると、人間は些細なトラブルをきっかけに、世界に対する信頼を一挙に喪失し、その代償として犯罪に走るか、カルト教団や陰謀論にいとも簡単にくみするようになる。これは、ある種必然的な社会の生理である。

 人間は、自らを正気だと信じつつ、狂気との境界線上をさまよっている存在なのかも知れない。髪を振り乱し、奇声を発して荒唐無稽なことを言ったり、人々に危害を加えたりすれば、誰が見ても狂気のなせるわざだと分かる。

 しかし、やっかいなことに、真の狂気は、およそ狂気とは似ても似つかない風貌をしている。一見すると冷静で、知的で、寛容ですらある。教養豊かで、客観的に物事を見て、常に全体のバランスを考え、しかるべきデータを踏まえて議論しているように見える。一方で、自らを徹底的に傍観者の立場に置き、当事者である人間の怒りや絶望や悲しみに共感できず、倫理や正義を空想だとして切り捨てる。つまり、科学的合理性や経済的合理性だけを判断基準にすれば、あらゆる問題が解決できると確信犯的に信じ込んでいるのだ。感情や想像力をなくし、理性だけになった状態こそ真の狂気である。この種の知的エリートを多く生み出すにいたった国の教育は、実質的には破綻している。

 あるいは、国際政治や経済について、さも事情通のように論じるが(ほとんどがパクリ記事である)、反韓・反中の言説にはもろ手を上げて賛同し、ファナティックな国粋主義的情念を満足させてくれるジャーナリストや学者の言説にはコロリと騙されてしまう。この後者の狂気は、ひたすら「国益」を叫び、「毅然として立つ」だとか「確固たる信念をもって」という言葉を多用する。この二つの狂気は同じ穴の狢なのである。

 今回は前者の例として、経済評論家・ブロガーの池田信夫氏を取り上げる。氏に対しては以前、『原発危機と「東大話法」』という安冨歩氏の本のレビューの中で、『経済合理性という狂気または合理的な愚か者』と題してとりあげた(未来塾通信34)。池田氏は、東大出身でNHKを退職し経済評論家としてエリートの間に絶大な人気があるということなので、試しに氏のブログや著作を読んでみた。しかし、あまりの日本語読解力のなさと現実を追認するだけの言説に唖然とし、まともに取り上げるに値しない人物であることが分かった。そもそも氏は、まともな研究論文ひとつ書いていない。研究論文とは、新たな問題を発見・提起し、その問題に対して一定の手続きにのっとった客観性のある解決策を示した文章にほかならない。研究とは、やや大げさに言えば、人類の知識に新たな知識の小部分を付け加えるものである。研究論文を書くためには、何よりも問題発見能力を身につけることが不可欠だが、問題を発見するとは、要するに、これまで自明だと思われてきた事柄を自明視せず、人々が自明だとみなしている事柄の中に問題を見出すということである。これは、つまるところ、常識と権威に反逆する批判的な精神にほかならない。氏は研究論文を書くための資質を決定的に欠いているのだ。

 氏の言説を検討することに時間を使いたくないが、「ウソも100回言えば真実となる」可能性があるので、今回は後日のために、池田氏のツイッター上での発言(5月10日〜11日の2日分)を拾っておく。


1:仙谷氏もいうように、経済産業相がOKすれば再稼働はできる。「国民的合意」なんて法律のどこにも書いてない。なぜ「福島事故の検証」をしないと柏崎が運転再開できないのか、法的根拠を言ってみろ。嵩にかかって民間企業をいじめる知事の人気取りは醜い。

2:飛行機事故でも、事故調の結論が出るまですべての飛行機を止めるなどということはない(原発事故で死者は一人も出ていない。放射能よりタバコのほうが害がある。この倒錯した論理を突き詰めれば、飛行機事故のほうが原発事故よりも重大だとの結論に達するのだろう。そもそも価値判断の座標軸が狂っていれば、その言説がいかに知的で客観的な意匠をまとっていようとも、まともに相手にされなくなるのは目に見えている。筆者:注)。今回の事故の原因は明らかで、津波対策も終わったのだから、通常運転に戻るのが常識だ。「福島事故の検証」などという曖昧な根拠を出すのは、東電をいじめて人気取りするためだろう。

3:「核のゴミの最終処分ができないから原発はだめだ」という話は、かなりくわしい人も信じている都市伝説だが(氏の頭こそが都市伝説化している。筆者:注)、技術的にはナンセンス。核廃棄物の再処理は、技術的には解決可能(その技術を具体的に聞きたいものである。筆者:注)だが、政治的にはきわめて困難(コストの問題にすぎず、他国で処理させることも可能だと言っていたのはどこの誰か。筆者:注)その根本原因は、冷戦時代から変わらない(むしろ強化されてきた)線量基準。

4:「海洋投棄はけしからん」という感情論が多いが、1万mの日本海溝に沈める技術は確立しており、地層処分より安全。日本政府もロンドン条約は批准していなかったが、米国の圧力で批准した。ロンドン条約は半年前に通告すれば脱退できる。(ロンドン条約を破棄して海洋投棄せよと言うのか?地層処分より安全だという根拠などどこにもない。筆者:注)

 これは氏の発言の一部にすぎない。おそらく知性あるまともな人は、池田氏の相手をするのは時間の無駄だと判断していると思う。彼の言説の根底には想像力がない。すなわち倫理がない。現政府や原発を推進してきた側の欺瞞の論理をここまで内面化すれば、滑稽というよりも哀れである。政治は人々の善意を利用し、自らを批判する者の論理をも利用する。池田氏のように政治について深く思いをめぐらせたことのないナイーブな人ほど、メディアや権力に都合良く利用され捨てられるのだ。

 池田氏の発言を狂気だと言った以上、私が正気だと考える意見をとりあげたい。もちろん、経済評論家でも政治家でもなく、学者でもない市井の人の意見である。今年の5月8日の朝日新聞の「声」欄への投書から全文引用する。

     『政府はおおい町民の声聞いて』(福井県おおい町 53歳 M・S氏 僧侶)

 ーーー 4月26日、おおい町で大飯原発3、4号機について国の住民説明会があり、柳沢光美・経済産業省副大臣が来県した。そこで副大臣にお伺いしたい。本当に福島のことを思うなら、現状での再稼動に否定的な佐藤雄平福島県知事の見解をどうお考えなのか。また、本当に電力を供給してきたことを地元住民に感謝しているというなら、なぜ住民が不安を抱えた状態で再稼動をごり押しするのか。

 ほとんどの住民は、雇用さえ整えば、現状での再稼動には賛成しないはずだ。万一事故となれば、道路一本しかないこの現状で、どうやって住民の避難と事故収束ができるのか。事故の時の要となる免震棟もまだできていないのに。これではあの「安全神話」に逆戻りだ。まずは免震棟や避難道路、フィルター付きベント、そして防潮堤など緊急時に最低限必要なものを備え、それから「稼動させて下さい」というのが筋ではないのか。

 今、緊急に再稼動を議論されているのは大飯原発だけだ。私も含め、おおい町民は、なぜ例外扱いされてしまうのか。もしおおい町が、関西の方々の反対の声に耳をかさず、再稼動許可を出すならば、地元住民はこれらのリスクを負わされた上、もはや重大事故を起こした場合の受け入れ先すら失いかねないと危惧する。ーーー

 しかし、この筋の通ったM・S氏の正気の意見を踏みにじって、5月14日、おおい町議会は、大飯原発3、4号機の再稼動を賛成多数で議決した。反対は1票だけであった。

 おおい町議会は、自らの利益を考えるなら、原発の再稼働に対して、「電力会社は原発事故の被害者すべてに対して、賠償金の支払能力があること」を条件とする法律の制定を要求すべきだったのである。福島原発事故により、東京電力には被害にあった人々を補償する能力がなかったことが明らかになった。そのため、人々はいまだに増大するリスクやさまざまなストレスに曝されることを、僅かな補償で受け入れざるをえない状況にある。また、日本政府は放射能のリスクに曝されている人たちを避難させることもできなかった。同じような大惨事が再び起これば、人々は同じような被害に遭い、生活を根底から破壊され、故郷を喪失するしかない。国民の大多数が再稼動に疑問や危惧を抱いているにもかかわらず、われわれが選んだはずの政府が、あらゆる手を使って再稼動にこぎつけようとしている図式は、狂気と呼ぶほかない。

 薄氷の上で浮かれて死の舞踏を舞う国民大衆に、自らの命を犠牲にしてでも危険を知らせ、安全な場所に導くのが政治家の役目ではなかったのか。しかし、現在、薄氷の上で率先して死の舞踏を舞っているのは当の政治家たちなのである。