未来塾通信35


好きなことがひとつあり、その好きなことを好きであり続けること

■人が幸福に生きるとはどういうことなのでしょうか。あるいはどうすれば幸福になれるのでしょうか。これはとても難しい問いです。幸福だと思っている人に、あなたは不幸なのだと言うこともできなければ、不幸だと思っている人に、実は幸福なのだと言うこともできません。人の幸・不幸はそんなに簡単に分かるものではない、と言われればそうかもしれません。しかし、人間がある程度の歳になった時、幸福について自分なりの考え方をはっきりと示すことができなければ、生きてきた意味がないのではないか、と私は最近しきりに思うようになりました。

塾教師を始めたころ、私を最も悩ませたのは、あれやこれやの教科の指導法や生徒管理の方法ではなく、そもそも幸福とは何かということについて、自分なりのはっきりとした価値観・世界観を生徒に提示できないことでした。

「そんな大それたことを、塾教師に期待しているわけではない。さっさと子どもの成績を上げて、志望校に合格させてくれればいい。そのために対価を払っているのだから」というのが塾に対するいわば世間の常識です。そして、塾教師としての最低限の職業倫理を全うするため、私はその期待にほぼ完璧に応えてきたつもりです。しかし、子どもの成績を上げ、志望校に合格させることを、塾の「実績」だと考えることはどうしてもできませんでした。あちこちに分教室を作り、教師を雇い、「実績」を上げて売り上げを伸ばすという経営手法をとることは、結局は、金儲けのために社員や生徒を利用することです。企業化した塾の経営者は、本来は豊かで多様であるはずの子どもたちの価値観や世界観を単純化し、歪めてしまうという負の側面を考慮に入れることはありません。激しい競争に勝つために、すべてをコスト計算で踏み越えていきます。アルバイトや契約社員の教師に向かって「費用対効果を意識しろ!」と絶えず檄を飛ばします。会社の「実績」を上げるために、少しでも多くの生徒を集めようとテレビコマーシャルも打ちます。教師から見れば、塾の生徒が自分の「営業成績」と「実績」を上げるための手段あるいは単なる記号になるのは、企業としての塾の必然的な成り行きです。塾に通ったのは試験直前の2〜3ヶ月でも、合格すれば「実績」になるのです。塾の言う「実績」とは詐欺言語の一種だと思います。(このからくりについては『未来塾通信1−学力低下は塾のせい』をお読み下さい)。
そんな生き方は幸福とは何の関係もないと、塾を始めた時に感じていました。私にできることは、この仕事に意味を見出せるように働くことであり、もしそれが面白くなれば、一生一塾教師でいよう、他に教室を出して経営することは絶対にしまいということでした。

「企業である以上、そんな偽善者ぶった言い方は許されない、何を青臭いことを!」と言われそうです。まったくその通りだと思います。だから、私は企業人として生きることを選択しなかったのです。それが、一塾教師としての覚悟でした。

「人より少しでもいい大学に入り、いい会社に入り、いい給料をもらって安定した生活を送ることが幸せである」という考えは、何が起こるかわからない人生をモデル化し、人生を費用対効果で考えることが、幸福につながると錯覚させるための方便に過ぎません。単なる方便でしかないものを、あたかも人生の本道であるかのように大人が思い込むと、子どもたちは深く考えることをせず、自分自身の人生ではなく他人の人生を生きるようになってしまいます。すなわち、自分自身の感じる幸福ではなく、他人が、あるいは世の中の多くの人が「幸福」だと考えることを追求するようになるのです。結果、幸福でもないのに「幸福のフリ」をしなければならなくなります。それはとてもつらいことです。世の中に対して否定的になり、生きる意味を見失って虚無的になってしまうかもしれません。
私は以前『通信29』に次のように書きました。

「社会的なステイタスを象徴的に示すある上昇システムが目の前に用意されていて、多少の経済的な余裕さえあれば、人は一般にその中身と自分の適性や能力が一致するかどうかなどをたいして吟味することなく、その上昇システムにしたがって次々に階段を上ろうとする。この階段を上りきってその恩恵に浴する人はごく一部であるにもかかわらず、その事実と向き合うことはしない。問題は、現在の上昇システムが社会の実相からかけ離れて抽象的であるため、普通の親子をして、自分に合った人生選択とは何かをよく考え抜くことをさせないという点なのだ。」と。

そして、3・11以降、この上昇システムがどこにつながり、何を引き起こしたのかが明らかになりました。これまで私たちの社会は、この上昇システム全体が、いったいどこに向かっているのか、自分の果たしている役割が、いったいその全体とどういう関係にあるのかを問わずに来ました。ただひたすら、自分の責任を果たし立場を守っていれば、なぜか給料が振り込まれ、一定期間にわたってそれを続けていれば、昇進し、昇給もしていきます。そこで求められるのは、自分に与えられた仕事を効率的にこなす能力です。その仕事が社会とどうつながっていて、社会に何をもたらしているのか、それが正しいことなのかどうかという倫理的な判断を下す能力など全く求められませんでした。その結果が福島の原子力発電所の事故となったのです。

世の中は大きく変わろうとしています。一見なにも変わっていないように見えても、これまでの生き方を見直さざるを得ない事態が静かに進行しています。私たちがより良き人生を送ろうと思えば、幸せとは何かという問いに自分なりの答えを出さなければなりません。
無名の青年だった頃に、この答を既に出していた人の例を挙げましょう。指揮者の小澤征爾氏です。昨年の暮れ、村上春樹氏が小澤氏にインタビューしたものが本になりました。その本のタイトルは、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮社)です。「コネもなくひょいと外国に出て行って、ニューヨーク・フィルとかシカゴ交響楽団を指揮し、自分の世界を提示して、外国の聴衆を強く惹きつける。一人の無名の青年になぜそんなすごいことができたんでしょう?」と聞いた後、村上春樹氏はその本の中で次のように言います。

「小澤さんの音楽には若い時から常に、個人的イメージがくっきり立ち上げられています。いつもどこかに焦点が明確に絞られています。でもそういうのができていない、あるいはできない音楽家が、世の中には少なくないんじゃないかな。日本の音楽家には、と十把一絡げにするといけないんだろうけど、高い技術はあっても、技法として破綻のない、平均点の高い音楽を演奏できても、明確な世界観がこっちに伝わってこないというケースが少なくないような気がします。自分独自のこういう世界を立ち上げて、それをそのままナマに人に伝えたい、という意識がいささか弱いんじゃないかと」
それに対して小澤氏は次のように答えます。

「そういうのって、音楽にとってはいちばんまずいことですよね。そういうのをやり始めると、音楽そのものの意味が失われてしまいます。本当に下手をすると、エレベーター音楽になってしまう。エレベーターに乗ったらどこからともなく流れてくる音楽。ああいうのが一番恐ろしい種類の音楽だと、僕は思うんです」

私はこの部分を読んでしばらく考え込んでしまいました。教育の世界はほとんど「エレベーター音楽」一色に染められようとしているからです。「どこからともなく流れてくる音楽」とは通信添削やDVDを見せるだけの授業。レンタルDVDショップと化してしまった塾産業のことです。「音楽にとってはいちばんまずいことですよね。そういうのをやり始めると、音楽そのものの意味が失われてしまいます」の「音楽」を「学ぶこと・生きること」に置き換えてみてください。ここにも費用対効果思想が蔓延しています。子どもたちはますます幸せを実感できる環境から切り離されて行っているようです。
30歳で塾を始めてから、最近になってようやく、私は自分なりの世界観を少しずつですが生徒に提示できるようになりました。そのため、授業の合間に、政治・文学・哲学・法律・生物学・歴史・建築・農業の話もします。私は評論家ではありません。子どもたちが、等身大で自分らしく謙虚に生きるために役立つと思うものだけを選択して話しています。おかげで日々私はささやかな幸福を実感できています。

そして今、幸せになることは、孤独であることを覚悟しなければならないけれど、そんなに難しいことではないと思っています。それは「エレベーターに乗ったらどこからともなく流れてくる音楽。ああいうのが一番恐ろしい種類の音楽だと」判断できること。つまり、人間の世界観や価値判断を含んでいないかのような無色透明で没個性的な「エレベーター音楽」を拒否すること。そのためには自分の実感のこもったことばを手放さないこと。一人称で発言し、一人称で物を見、そして考えること。世の中の幸福な人の多くがしていること。つまり、何か好きなことがひとつあり、その好きなことをずっと好きであり続けること。その方向へ人生の舵を切る勇気を持つこと。