未来塾通信34


経済合理性という狂気または合理的な愚か者について

■去年の暮れ、『原発のウソ』の著者、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章氏の講演が大分であった。その数ヶ月前、私は高校生の授業で、脱線話の折に彼を紹介した。教育は現在の社会に子どもたちを適応させることを含めて、ある種の洗脳である。そのことを自覚しているので、私は特定の見方に偏ることなく、言葉を慎重に選びながら話した。そして、講演会の数日前、「興味があったら講演会に行ってみることも自分の世界を広げる良い機会になると思う。もし講演会場で会ったら帰りは車で送ってあげるよ」と言って、彼らの判断に任せた。

講演会の前半が終わって休憩時間になった時、私は後ろから軽く肩をたたかれた。振り返ると上野丘高校のK君とM君であった。二人は小出氏の『原発のウソ』を持ったまま、「先生、小出さんのサインがもらえるでしょうか」と私にたずねた。「もちろん。ほらあそこにいるから今すぐ行ってきたら」と返事をして二人を見送ったが、私は少し感動していた。50人くらいの参加者を予想していた二人が、大人ばかり600人以上がつめかけている会場で立ったまま講演を聞き、サインをもらおうとしているのだ。

しかし、小出氏に質問する人や主催者に阻まれてなかなかサインをもらえず、並んでいる途中で休憩時間が終了した。3時間の講演が終わり、二人はまた並んだ。小出氏のすぐそばまで近づいたとき、主催者が割って入り、時間がないのでと言って二人をブロックした。私は離れて見ていたが、急いで二人のところに行き、小出氏に声をかけた。「先生、この二人は高校生です。先生の本を読んでいます。サインしてやっていただけませんか」。小出氏はにっこり笑って、「いいですよ」と言い、「君たちにこんな汚染した世界を残してしまって本当に申し訳ない。これからは君たちの時代だから」と言いながらサインをし、二人の高校生としっかり握手した。
40年以上にわたって独立不羈の精神を持ち、原発の危険性を指摘してきた京都大学の学者が地方の高校生に言葉をかけているのだ。小出氏が誰の立場に立ってものを考え、生きてきたかがわかる瞬間であった。

教育や学問は人間と離れては存在し得ない。もしその人間が正直で立派であれば、その学問には意味があり、若い人たちにとって魅力的なものと映るのだ。知識や学問体系が人間と切り離されて、あたかも客観的に存在するかのように考えることは幻想である。原子力工学のような学問においてもそうである。私は『通信32』に次のように書いた。「科学は何らかの前提の下に出発し、何らかの枠組みの中に収められ、何らかの方向へと発展させられる。そしてその前提・枠組み・方向は科学以外の判断によって定められ、その科学以外のものが科学の成果の優劣を決めるのである。」と。

ところが、後期戦後社会が始まる1980年代半ばから、受験教育を通じて知識がデータベース化され、いつでも必要な時に取り出せるという基本フォーマットが完成する。つまり、社会のあり方を一切疑わずに済むようなタイプの知識を効率よく短期間で習得したものが、社会の上層階級へと上り詰めることができるという基本合意が出来上がってしまったのである。その結果、「知識は人格と切り離せない」とか、「知識は世界観を変え、社会を変えることのできるものであり、知識を通じて人間は日々成長し、より良き生を実現できる」、というような考えは排除されるようになった。小出氏のような人間が異端と目されてきた所以である。

しかし、知識や学問が席次競争を通じた単なる出世レースだとする考えが社会で主流になると、政治家や経産省の官僚をはじめとしてメディアで働く人間の資質も大差ないものになる。その結果、社会が大きく舵を切らなければならない時に決断できず、破局的な事故を起こすことになる。
小出氏が二人の高校生に「これからは君たちの時代だから」と言ったのは、このことに気づいて、より良き社会を作って欲しい、という意味だったのだと思う。
さて、それなら私は大人として何をすればいいのか。もとより、一人の人間にできることなど高が知れている。そこで私は1冊の本のレビューをアマゾンに投稿した。その本の題名は『原発危機と東大話法』という。アマゾンで検索できない人のために、以下に再録しておきます。私がつけたタイトルは以下の通りです。

 -------------- 『経済合理性という狂気または合理的な愚か者について』-----------------
    
フクシマ以降、私は何をしても心晴れず、笑うことも少なくなった。原発事故の衝撃もさることながら、その後の学者や政治家・マスコミの正気を疑うような発言や報道に接して、私は深く傷つき、ボディーブローが効いてくるように疲弊した。言語存在としての人間は、言葉を正確に使うことなしに現実に肉薄することもできなければ、精神の平衡を保つこともできない。専門用語を多用し詐術的論理を使う人間が、確信犯的な自信をもって声高に叫べば叫ぶほど、人間のおぞましさをまざまざと見せ付けられる思いがして、いたたまれなくなる。
 
 本書の第1章「事実からの逃走」から一例を挙げよう。2005年12月25日に行なわれた公開討論会「玄海原発3号機プルサーマル計画の『安全性』について」での、東京大学大学院工学研究科の大橋弘忠教授は「専門家になればなるほど、そんな格納容器が壊れるなんて思えないんですね」と発言し、討論の相手である小出裕章氏を素人だとして侮辱している。著者は、この公開討論会での大橋教授の議論の欺瞞性に言及して次のように述べる。「原子力の専門家であるための条件は、原子力についての真理に曉通することではない、のです。そうではなくて、欺瞞言語を心身に浸透させていって、まともに思考できなくなり、原子力業界の安全欺瞞言語でしかものが考えられなくなって、『格納容器なんて壊れるわけないよね』と<思い込める>ということが専門家の条件なのです(67頁)」と。
 
 第2章では精神科医の香山リカ氏が無意識のうちに自らの隠された真実を露呈することになった経緯を指摘する。
 
 そして第3章「東大文化」と「東大話法」で、経済合理性と費用対効果を何よりも重視する池田信夫氏を俎上にのせる。この章が本書の白眉である。「放射性廃棄物を途上国に開発援助と交換で引き取ってもらうことも可能で、これはコストの問題にすぎない」と断じる池田氏に対し、著者はそういう行為は卑怯であるとして、極めて重要な指摘をする。「経済行為を単にコストと利益に還元する論法が、経済学の特徴ですが、私はこの考えは経済的観点からして、間違っていると考えます。というのも、人間社会が卑怯者の集団となれば、社会秩序が維持できなくなるからです。その社会的・経済的コストは極めて大きいのです。この重要な論点を無視するのが、経済学という学問の最大の問題点だと私は考えています。池田氏のブログが絶大な人気をエリートの間で誇っているのは、ここのところがポイントなのだと私は感じます。卑怯かどうかは、一切問題にせず、そういうことをいう人間は鼻先で笑い、すべてをコスト計算で踏み越えていく。それが卑怯者の多いエリートやその追随者には痛快なのでしょう。しかし私は、逆に、卑怯かどうかは、経済的に非常に重要だと考えています。というのも、卑怯者は何も生み出さないで、盗むばかりだからです。誰かが創造性を発揮して価値を生み出さなければ、経済は維持できません。(168〜9頁)」
 
 その池田氏はブログで次のように断言している。「福島原発事故は命の問題ではなく、純然たる経済問題なのだ。経済問題と考えると、農産物の年間出荷額が 2400億円の福島県で5兆円もの賠償を東電が行なうのは、どう考えても過大であり、数兆円もかけて除染を行なうのは税金の浪費である」と。池田氏は「純然たる」経済問題だと自らに言い聞かせて、葛藤から自由になる手法を身につけている。ここまでくれば、経済合理性を追求する余り、狂気の沙汰に至った言説だと言うほかない。
 
 なぜ人間はかくも合理的な愚か者になりうるのか。
経済合理性の人間社会への力ずくの押しつけが、私たちの生の複雑さや豊かさを平準化し、社会を理解するために必要な「正義」や「倫理」を、経済学者や専門家から根こそぎ奪い取ってしまったからである。

 私たちの生は市場ではない。同様に、意識もまた市場ではない。経済学という閉ざされた世界の中で、現実離れしたモデルを作って、お互い持ち上げたり、けなしあったりしている池田氏やその取り巻きは、私にはゲームに興じるこどもにしか見えない。経済産業省の言いなりになって、原発を海外に輸出しようとしている日本政府も同じ穴の狢である。これだけの事故を起こしたにもかかわらず、何もなかったかのように思考し行動する。あるいはこれまでの体制をいっそう強化することに血道をあげる。今後、一体何基の原発が事故を起こせば彼らは覚醒するのだろうか。

 フクシマ以降、私たちが生きている世界に課せられた最大の問題は、私たちの子孫が荒涼たる環境の中で暮らしている、あるいは暮らせなくなっていることを想像して、それでも良心の呵責なく生きることができるのかという倫理的な問題なのだ。池田氏は倫理や正義を空想だと言う。なるほど倫理も正義もそして怒りもモデル化できない。しかし、厳然として存在する。そして、それこそが歴史を動かす原動力となってきたのである。倫理と正義を希求するすべての人に本書を勧めたい。