未来塾通信33


ビュリダンのロバ

■私たちは今、原発をめぐって選択の岐路に立たされている。そこで思い出されるのが「ビュリダンのロバ」の寓話である。

あるとき腹をすかせたロバが餌を探して歩いていると、道が左右に分かれた場所にやってくる。双方の道の先には、同じ距離に、同じ量の干草が置かれている。これはロバにとっては「想定外」であった。「知的な」ロバはどちらの道を選択するべきか迷い、決断ができず、岐路に立ったまま餓死してしまうという話である。動物としての本能に従えば、ロバは飢え死にせずに済んだのであるが、いかんせんこのロバは「知的」過ぎた。「比較考量」を得意とし、両者の間に「有意な差」を認めることができず、今決断しなくても「ただちに健康に影響を及ぼすわけではない」と判断して、不作為を選んだのである。選択に伴う痛みと責任を回避した結果、餓死することになったこのロバを笑うことができるであろうか。

 幸か不幸か人間の生は選択の連続であり、価値判断から逃れることはできない。二つの価値のどちらを選ぶかも、より上位の価値判断である。結局、価値判断をより正しいものにし、より高めていくものは何なのか。価値判断の根拠となっているものは何なのか。
知的データベースがあって、そこに効率的にアクセスでき、それを覚えて試験のためにアウトプットするのが教育だと多くの人が信じてきた。つまり、知識の獲得が世界観を変えることには結びつかなかった。「通信29」に書いたように、戦後、知識を通じて人々が成長し変われる社会は、今日まで実現していない。しかし、この価値判断の根拠を日本の文化と歴史の中に探そうとする精神の営みこそが知性であり、それを日々養うことが教育の最終目標のはずである。

 「通信32」で書いたように、後期戦後社会が始まってほぼ三十年の間に、私たちはこの正しい価値判断をするための精神の営みを放棄してしまったのである。その結果残されたのは選択肢が一つしかない生であった。それをニーチェは「鎖につながれて踊る猿」の生と呼んだ。そこでは価値判断は不要となり、効率よく合理的に目前の階段を駆け上がる技術が幅を利かせる。そして、歴史の経験の中から正しさを汲み上げる力は枯渇させられる。私は「鎖につながれて踊る猿」の生を生きるのも、「知的なロバ」になるのもごめんこうむりたい。特に若い人たちの生が無気力に沈むのを見たくない。最悪なのは「鎖につながれて踊る知的なロバ」になることである。そうならないためにはどうすればよいか。まず、「鎖につながれて踊る知的なロバ」の言説をじっくり見極めることである。
 
ここに格好の見本がある。6月1日の朝日新聞の声欄に福岡県糸島市の56歳の歯科医師I氏が以下のような意見を投稿している。氏は私とほとんど同世代である。

---放射性廃棄物の確実な最終処分方法がない以上、原発は消えゆく技術だろう。それにしても今の世間の雰囲気は異様ではないだろうか。「原発廃棄ありき」で放射能の恐ろしさばかりを煽り立てる。そんなことをしなくても、日本人は十分すぎるほど核の恐ろしさは知っている。日本は被爆国として、放射線による人体への影響研究の膨大なデータがあるはずだ。発表はそれに基づいて毅然とした態度ですべきだ。「さしあたり安全だが、念のため」などというあいまいな態度がどれほどの風評被害を生んでいることか。復興の障害になっていることか。絶対安全などということはない。飛行機が落ちることもあるし、車も事故を起こすことはある。それでも我々は便利に使っている。原発も現に多数存在する以上、即廃棄は到底無理だ。今できる最善の補強工事などを早急に済ませ、津波の発生確率の小さい日本海側から稼動させ、電力維持を図るべきだ。でないと景気はますます低迷し、日本は本当に立ち上がれなくなる。同時に地熱発電やメタンハイドレート開発に本腰を入れ、ポスト原発を推し進め、日本の強みとすべきだろう。立ち止まっている時ではないのだ。---

 I氏の意見は中立的でいかにも客観的にみえる。そしてかなり多くの人がこの意見を妥当なものと考えているのではないだろうか。果たしてそうか、以下に検討してみる。
この投書の中でI氏はいくつかの価値判断をしている。

(1)まず、「放射性廃棄物の確実な最終処分方法がない以上、原発は消えゆく技術だろう。」の箇所。

 今や使用済み核燃料は広島型原子爆弾に換算して少なくとも80万発分に達している。原発を稼動させる限り使用済み核燃料はさらに増え続ける。したがって「放射性廃棄物の確実な最終処分方法がない以上、原発はただちに停止すべきである」との価値判断も当然可能なのだが、I氏はそういった価値判断を下さない。その代わり、「原発は消えゆく技術だろう」と新聞の社説や評論家のような、あるいは気象予報士のような言い回しで責任を避ける。「知的なロバ」の特徴である。
 
(2)次に、「それにしても今の世間の雰囲気は異様ではないだろうか。『原発廃棄ありき』で放射能の恐ろしさばかりを煽り立てる」という箇所。

 これはI氏の主観的な印象である。「反原発は集団ヒステリー」だという自民党の石原伸晃幹事長もI氏と同じ意見だ。しかし、原発を推進してきた政治家(自民党はいうまでもなく民主党の中にも大勢いる)、東京電力、推進派の学者、メディアが作り上げてきた原子力村のマインドコントロールから覚醒しつつある人々が、ようやく声を上げ始めたのだと受け取ることもできる。私はこちらの意見にくみする。では、石原伸晃幹事長およびI氏の意見は私の意見と比較して価値の優劣において同等なのだろうか。それぞれの意見が互いに等価だと考えることは、人間の生における選択を不可能にする。結果、不作為を選択して「ビュリダンのロバ」のように餓死するだけである。どんな意見も互いに等価であるなどというのは、おふざけにすぎない。そこに優劣があればこそ、人はより高い価値判断を求めて生きることができるのである。ところで、I氏の住む糸島市のホームページには次の記述がある。
 
「糸島市は、佐賀県玄海町の九州電力玄海原子力発電所に近接、福岡県内では唯一30km圏内に入り、風下にあります。今回の福島原発事故を糸島市に置き換えると、糸島市の一部が20kmの避難区域に、また糸島市のかなりの市域が30kmの屋内退避区域に入ります。この30kmの範囲内には、人口10万人のうち、約1万6千人の市民が生活しています。このことから、4月8日、九州電力との協議を行い、糸島市の緊急要望事項として3項目からなる要望書を提出しました。」

私には糸島市のとった行動はごく常識的で普通に思えるのだが、I氏にとっては「異様」で「放射能の恐ろしさばかりを煽り立て」ることになるのだろう。

(3)さらに、「日本人は十分すぎるほど核の恐ろしさは知っている」かは疑問である。

 日本人は広島と長崎に投下された原子爆弾の怖さは知っていても、原子力発電所がいったん事故を起こせばどれほど甚大な被害をもたらすか知らなかったのである。危険を警告し続けた学者やジャーナリストの発言に耳を傾けることもせず、チェルノブイリから学ぶこともしなかった。知っていれば、地震列島の上に54基もの原子炉を建設することはできなかったはずである。氏の意見は福島の原発事故という事実によって十分に反証されている。そして福島第一原発は収束に向かうどころか、メルトダウンを起こした核燃料は格納容器を突き抜け、地下水を汚染して海へ流れ出しているのである。
 
(4)次の記述、「日本は被爆国として、放射線による人体への影響研究の膨大なデータがあるはずだ。発表はそれに基づいて毅然とした態度ですべきだ」について。

 I氏の心配には及ばない。以下に「毅然とした態度で」発表している「学者」の例を挙げる。4月15日の官邸ホームページに長崎大学名誉教授で元放射線影響研究所理事長の長滝重信氏と日本アイソトープ協会常務の佐々木康人氏の発表が掲載されている。それによると、チェルノブイリ事故後の被曝による死者数を、事故直後の急性放射線死の28人と小児甲状腺がん死による15人だけだとして、それ以外の事故処理作業者の24万人、汚染地から避難した人や現在も居住を続けている527万人からは、被曝に関係する死者は出ていないとしている。この論理でいくと、広島・長崎での放射線による死者と認定されている人々は、急性放射線障害死と後の小児甲状腺がん死をのぞいて、すべてが「関係は認められない」ことになってしまう。この二人は、重松逸造氏の教え子である。重松氏は国際原子力機関(IAEA)のチェルノブイリ調査団の団長で、1991年に「チェルノブイリ被災地で大人も子どもも病気の多発は認められない。そこでとれるものを食べても問題ない」と発表して、世界の医師たちを驚かせた人物である。さらに3月20日より福島県知事の要請で、放射線健康リスク管理アドバイザーになっている山下俊一長崎大学教授は、「安全ではなく安心の話をしている」「年間100ミリシーベルト以内なら安全。毎時10マイクロシーベルト以下なら子どもたちは外で遊んでも大丈夫」「放射線の影響はニコニコしている人のところには来ません。クヨクヨしている人のところに来ます。これは明確な動物実験でわかっています(そのニコニコしている動物の名前を教えて欲しいものである)」と発言して(すべてYou Tubeに残っている)、解任要求を出されている。さまざまな疫学的データを読み取るのは人間である。私はある研究者なり学者が信用できるかどうかを、以下の二点で判断している。一つは、自分の仮説と合致するデータだけを求めて観測しているのではないかという自己懐疑の力を持っているかどうか、二つ目は、そのデータが誰によってどのように利用される可能性があるかを予測できるだけの力=人間としての誠実さを持っているかどうかである。
 
(5)「絶対安全などということはない。飛行機が落ちることもあるし、車も事故を起こすことはある。それでも我々は便利に使っている。原発も現に多数存在する以上、即廃棄は到底無理だ」について。

 I氏は原発の危険性を、飛行機事故や車の事故と同列に論じているが、あまりに無知であり無責任である。飛行機事故や車の事故で、何十万何百万もの人々が職を失い、強制移住させられることはない。ある地方が半永久的に住めなくなることもなければ、国家の存在そのものが危殆に瀕することもない。原発を廃棄したとしても、気の遠くなるような時間にわたって放射性廃棄物を管理していかなければならない。それは、次の世代に、そのまた次の世代に、危険を先送りし膨大な経済的負担を強いることを意味する。「現に多数存在する」という理由だけで、我々は原発の即時運転停止をあきらめる必要などどこにもない。何度もいうが、すべての原発を止めても電力はまかなえるのである。電力会社とマスメディアの「電力不足」キャンペーンにだまされてはいけない。
 
(6)最後に「今できる最善の補強工事などを早急に済ませ、津波の発生確率の小さい日本海側から稼動させ、電力維持を図るべきだ。でないと景気はますます低迷し、日本は本当に立ち上がれなくなる」について。

 要するに、この箇所が氏の最も言いたかったことである。I氏はこの期に及んでも「安全な原発」があると考えているのであろう。経産省も保安院も多くの政治家もそう考えている。推進派の東大の大橋弘忠教授も「原子炉格納容器が破損することなどあり得ない。一億年に一回の確率で大隕石の衝突で地球が滅亡するレベル」だと言ってきたのだ。にもかかわらず、事故は起こった。ちなみに大橋弘忠氏は2005年の玄海原発のプルサーマルをめぐっての公開討論で「プルトニウムは飲んでも安全」「プルサーマルの議論をしているのに、なぜ地震の話を持ち出すのか」「こんなこともわからないのなら、家に帰って子どもに聞いてみなさい」と主張した人物である。(もちろんすべてYou Tubeおよび佐賀県のホームページに証言が残っている)。
 
I氏の地元のすぐそばには玄海原発がある。氏は津波に目を奪われて、原発に対する最大の脅威は地震だということがわかっていない。『原発と地震−柏崎刈羽「震度7」の警告』を読んでみるとよい。この本は2008年度日本新聞協会賞、日本ジャーナリスト会議・JCJ賞をダブル受賞している。自分がいかに無知かわかるはずである。地震は天災である。しかし原発事故は様々な利権にしがみつく一部の人間たちが引き起こした紛れもない人災である。人災である以上、予測でき、あらかじめ回避できる出来事なのだ。彼らには正義を希求する精神が決定的に欠けている。自分たちの利権を守るために、何かと言えば「日本経済はどうなってもいいのか」「日本企業が海外に逃げて行く」と国民を恫喝する。

 壊れない機械などない。それが巨大化し老朽化すればするほど事故の確率は上がる。いったん事故が起これば「景気はますます低迷し、日本は本当に立ち上がれなくなる」などというのんきな話ではすまないのだ。この三十年間、科学技術に対する盲目的な信仰と経済取引における数量化可能性の重視という方法が、この国の全域を覆うことで、一種の政治権力として機能してきた。しかし、国家の根幹に倫理(正しく生きる力)がなければ、その国は「技術」と「経済」を信仰する「専門家」と称する人種によって滅ぼされてしまう。
 
 問題の本質に戻ろう。I氏と私とではなぜかくも価値判断が違うのかという点である。それは価値判断の根拠が違うからである。I氏は日本経済(一次産業は除外されている!)のために原発の再稼動を選択する。私は未来の子どもたちの生に責任を持つべきだと考え原発の即時停止を選択するのだ。そしてI氏および多くの政治家や財界人、学者の選択は間違っている。なぜなら、彼らは不道徳であるばかりか、今後直下型の地震が起こって福井の高速増殖炉「もんじゅ」か六ヶ所村の核燃料再処理施設が崩壊すれば、日本は破滅するしかないという事実を考慮していないからだ。それにしても歯科医師であるI氏が、自分の生活を支えてくれる地元の人の生命ではなく、なぜ日本経済のことを心配するのか。熊本県の小国町で家具を作っているK氏もI氏とまったく同じことを、同一人物ではないかと思わせるほど酷似した文体でブログ上に書いている。彼らの文章には、「日本の国力」「日本経済」「毅然として」という言葉が踊る。こういった言葉を平気で吐ける人間は、他者の抱く価値観に、実は、何の関心もないのである。生活を、美しい風景を、家族とともに暮らした思い出を、そして未来を一夜にして奪われた原発被災者の絶望や怒りを想像できない。それで彼らの精神は葛藤から無縁でいることができるのだ。その文体は他者への冷酷な無関心と張り合わせになっている。「専門家」の意見を無邪気に信じることで、自らの精神が単純化・単層化され、原発の再稼動を推し進める権力になっていることに気づいていないのだ。
 
 私たちはこの三十年間、豊かになったと錯覚していただけではないのか。豊かな社会はほぼ必然的に社会病理を抱え込む。もし日本が豊かな社会であれば、「何のための豊かさか」という自問自答を忘れることはないはずである。人間が社会的・歴史的な存在であることを考えれば、豊かさそれ自体に拘泥することの愚かしさに気づいているはずである。ドイツやイタリアが脱原発を決断できたのは、自らの豊かさ対する自己懐疑の精神を放棄しなかったからだ。I氏の言うように「立ち止まっている時ではない」どころか、せめて数年間は世界の豊かさをめぐるせめぎ合いの本質をじっくり見極めるために、私たちは立ち止まって反省すべきなのだ。
 
 自らの社会の豊かさに対して絶えず疑惑を突きつける努力を続ける文明だけが生き残るし、生き残るに値する。それにしても、この国の中枢にいる人間たちは、文明批評の能力も危機管理能力をも決定的に欠いている。世界中の地震学者は第二波の巨大地震が日本を襲う確率が高いことを予想している。原発の即時停止を選択すれば、私たちの国土がチェルノブイリ周辺のように無人の荒野と化すことだけは避けられるのだ。フクシマ以降、私たちが生きている世界に課せられた問題の本質は、科学技術による復興でもなければ日本経済の復活でもない。私たちの子孫が荒涼たる環境の中で暮らしている、あるいは暮らせなくなっていることを想像して、それでもわれわれは大人として、日本人として、人間として良心の呵責なく生きることができるのかという倫理的な問題なのだ。私の価値判断の根拠はこの点をおいて他にない。
 
追記:今日2011年7月6日、玄海原子力発電所の運転再開問題について、国が県民に説明した6月下旬の番組で、九州電力幹部が再開賛成の意見を番組宛に「一国民の立場で」メールするよう、自社や子会社の社員らに指示していたことがわかった。原発を推進する世論を形成する典型的なやりかたである。さらに、2005年の玄海原発のプルサーマルをめぐっての公開討論で、東大教授の大橋弘忠氏が小出裕章氏を見下した態度で嘲笑したにもかかわらず、会場から大橋氏を支持する拍手がわきおこっていたが、これも公開討論の場にいた九電関係者であることが判明した。しかし、偽メールや偽動員は昔から行なわれていたのである。九電幹部はフクシマ以降の変化を読みきれず、これまで通りのことを何の良心の呵責もなくやっただけである。この鈍感さにはあきれるしかない。これは明白な言論封殺、言論詐欺である。こんな人間が原発を安全だと言い張り、地元住民および国民の生命を犠牲にして利権にしがみついてきたのだ。私が倫理の問題だと主張する所以である。もういいかげん「がんばろう日本!」というキャッチフレーズはやめてはどうだろうか。これでは、原発事故の責任を徹底的に追及する姿勢は生まれてこない。どうしてもキャッチフレーズを叫びたければ、「覚醒せよ日本!」である。