未来塾通信30


N 開センターの唖然とする授業 ー 塾教師に実力はいらない・part2ー

■冬期講習会の直前、忙しい最中に友人 K がメールを送ってきた。「大分のN 開センターの英語講師U氏の授業がYou Tubeで配信されているから見てみろ」ということだった。私が何を感じるか彼には分かっていて、私をそそのかしているのだ。

私は塾や予備校のホームページを見ることはめったにない。所詮は誇大広告と都合のいいデータしか載せない、どこも似たり寄ったりの電子チラシに過ぎないからだ。同業者とはいえ、N 開センターと私の塾は地域も違えば規模もスタイルも文化も違う。そもそも、全国チェーンの企業塾から学ぶべきものはない、というのが28年間個人塾の教師をやってきた私の結論である。

友人 K は実は重厚な知の人間なのだが、時に人をからかうのが好きな、愛すべき人間である。だから、彼のからかいに付き合って、N 開センターのホームページを見てみた。案の定、塾経営の裏側を知っているものからすれば、よくやるなあ、という感想しかない代物であった。それでも、大分校の責任者S氏の言う、「講師陣が研鑽に研鑽を重ねた指導」で「レベルの高いN 開生達をさらに奮起させる研ぎ澄まされた内容」とはどんなものか。私は下世話な好奇心からU氏の授業を見た。

U氏は「なぜ『不正解』なのか、力をつけたければ論理的に検証せよ」と言う。これは塾・予備校業界では言い古された紋きり型のキャッチコピーである。こういう言葉をいまだに使っている感度を私は疑う。それはともかく、「N 開情熱講師大図鑑」のU氏の授業を見て、私は唖然とした。未来塾通信28 『マクドナルド化する塾産業ー塾講師に実力はいらないー』の内容を実証する格好の例だったのだ。それにしても、ここまでひどい内容だとはさすがに思っても見なかった。おそらくU氏はN 開センターのトップ講師なのだろう。なんといっても、You Tubeで全国に中継されているのだから、組織内で何度も検討し自信を持って送り出した講師であるに違いない。とにかく百聞は一見にしかずである。彼の授業を覗いてみよう。不定詞の説明として以下の2文を解説している。

(1) She is kind enough to invite me to the party.

(2) The box was too heavy for me to carry.

(1)の解説では、to invite が不定詞だとしてアンダーラインを引き、「OKね?」である。「次にこの不定詞がどこを修飾しているか考えてみよう」と言って、考えるヒントも与えず「こいつ、enough にかかるんだね」と言い、enough を囲み、to invite から逆矢印を掛ける。実はここまで見ただけで、私は彼が英語を全く理解していないことがわかった。英語とは無関係に受験英語なるものがやはり存在するのだと、今更ながら思い知らされてなんともやるせない気持ちになったのである。

彼の授業は続く。「ここからがちょっと難しいんだけど enough が何を修飾しているかと言うと kind を修飾しているんだね。だから(チョークの)色を変えて」と言い、enough から kind へ逆矢印を掛けて、「招待するくらい十分に親切なという意味になるんだよ。で直訳すると、彼女はね、私をね、パーティーに招待するくらい十分に親切なんだよという意味になって、彼女は親切にも私をパーティーに招待してくれました、というそこのテキストに書いてある訳が出来上がるわけ。OK?」である。何が OK?であろうか。

断言するが、30年前の英語の授業でもここまでひどくはない。こんな授業なら中学生でもできる。そもそもなぜ「招待するくらい十分に親切な」という直訳が「親切にも招待してくれた」という日本語に変わるのか。直訳と意訳の差なのか。おそらく、U氏は考えたこともないのだ。He had just enough money in his pocket to buy a ticket. は「彼は切符を一枚買うのに十分なお金を持っていた」ではなく、「切符を一枚買えるくらいのお金しかなかった」という意味である。「enough =十分な」という程度の理解では、生徒にまともな実力をつけることなどできない。

続いて彼は「似たような構文が下にあります」と言って(2)の説明に入るのだが、(1)と(2)の構文のどこが、どのように似ているかを説明しない。実はこの説明こそが最も重要なポイントなのである。「(1)と(2)は、どこがどのように似ているのですか」と生徒に質問されたら彼はどのように答えるのであろうか。ただ受験で同じような不定詞構文として勉強したからだ、と答えるしかないだろう。この(1)と(2)の構文は、不定詞の構文などではなく、英語の発想の根幹にかかわる重要な構文なのである。後で説明するが、今は彼の説明に戻ろう。

(2)The box was too heavy for me to carry

「ここのポイントはね too なんだけど、この単語はね、イコール very と思っていていいんだけど−、very とちょっと違うのはね、否定なの。重いのが否定なの。」これは(1)の説明よりひどい。訳のわからない説明である。是非 You Tube をご覧になってもらいたい。very に否定の意味はない。 too に否定の意味があるのなら very と too は「ちょっと違う」どころの話ではない。肯定と否定の違いは天と地の開きがある。英語の中でも否定構文の重要性は群を抜いているのだ。私はいくら説明してもし足りないと思っている。彼にとっては肯定と否定は「ちょっと違う」程度のものなのか。それに、「重いのが否定なの」であれば、意味としては「軽い」になるのが論理ではないか。「重いのが否定なの」と言っておきながら、to carry にアンダーラインを引いて、ここを否定していると説明するにいたっては、もう支離滅裂である。

おそらく彼の頭の中には too〜to 構文は so〜that〜can't に書き換えられるから to carry を否定していると単純に考えたのであろう。それなら、「重いのが否定なの」と説明するのは間違いである。生徒のそばに行って机を持ち上げるふりをし、おおげさに Too heavy ! と叫ぶほうが何倍もわかりやすい。彼は受験英語業界の中で何の検証もされずに受け継がれてきた説明をただオウムのように繰り返しているだけである。彼自身のことばを借りて、「なぜ『不正解』なのか、力をつけたければ論理的に検証せよ」と言いたい。

彼の説明の間違いはまだ続く。 for me を、「誰にとって重いかというと、私にとって重い」と説明しているが、間違いである。for me の for は to carry の意味上の主語を表す for である。「私が-運ぶ」という隠れた主語・述語の関係があることに気づかせなければならない。これも、 Nexus という英語の重要な発想の一つである。例えば、上記のような教え方をされた生徒に、It is easier for you to go there than it would be for her to come here. という英文を訳させてみよ。「ここへ来ることは彼女にとってやさしいであろうよりも、そこへ行くことはあなたにとってはよりやさしい」などとわけのわからない訳をするに決まっている。この for は、動作主を示す for だと教えておけば、簡単に応用が利き、「彼女がここに来るよりも、君がむこうに行くほうが簡単だよ」とすぐにわかるのである。

あるいは、You say things like that and you make it impossible for me to hate you. はどう訳すのだろうか。これは映画の中のセリフだが、U氏に習った生徒の訳は「あなたはそういったことを言う。そして、あなたは私にとってあなたを憎むことを不可能にする」というレベルのもので終わるはずだ。このセリフは現在形で言われているので「あなたはいつもそういうセリフを言っては、私があなたを憎めなくなるように仕向けるのよ」となる。

英語の発想を教えず、訳し方だけを教えるのは、なにも教えていないに等しい。それどころか、英語嫌いを増やすだけである。「知識を詰め込んでいる生徒と学習に好奇心のある生徒は同じ学力のように見えても、応用できる力が違います。」などというキャッチコピーを流す暇があったら、N 開センターはもっと授業の中味を充実させるために必死の努力をするべきである。それにしても、責任者のS氏および英語科の他の講師たちはこの映像授業を見てなにも感じなかったのであろうか。私が責任者なら、こんな授業は恥ずかしくて誰にも見せられない。即座に削除させるだろう。消費社会の進行とともに、塾はもはや知的産業では断じてなく、羊頭狗肉の金儲け産業に堕してしまったのだ。

さて、批判する以上、この2つの英文を説明しなければならない。それが批判する者の最低限の責任であろう。

私なら、まず(1)(2)の文の共通性に着目させる。

(1)She is kind enough to invite me to the party.

(2)The box was too heavy for me to carry.

この2つの英文は、従来説明されてきたような不定詞の構文ではない。形容詞が enough, too, so, as といった副詞と結びついたときの考え方の問題なのである。上記の kind や heavy はその一例に過ぎない。

そもそも形容詞とは人やものごとに対する話者の価値判断を含んだことばである。従って、kind や heavy といった形容詞を使った以上、なぜ、どのように、どの程度 kind でありheavy なのかを説明しなければならないのである。

important、 stereotypical(型にはまった)、complicated(複雑な)、sensible(分別のある)といった形容詞を使えばなおさら、なぜ、どのようにそうなのか、を立証しなければならない。英語の発想の根底には、自分の意見を言いっぱなしにせず、具体例を挙げて立証してこそ本当のコミュニケーションが成り立つという共通了解があるからである。She is kind と言った以上、彼女がなぜ、どの程度親切なのかを言わなければならない。そのときに相関語句として登場するのが enough, too, so, as といった副詞群なのである。私はよく次のような例を出して生徒に説明する。

「She is beautiful といえば、彼女はきっと仲間由紀恵のような美人なんだろうね。でも beautiful に as がついた瞬間にbeautiful という形容詞の幅は一気に広がります。例えば、She is as beautiful as a monkey. という文の beautiful はもうbeautiful とは言えない。それどころか彼女は・・・・・だという意味になるね(笑)。 だから、Taro is as old as Jiro. の意味が、太郎は次郎と同じくらい年をとっている(老けている)という意味ではなく、太郎と次郎は同じ年だ(たとえば10歳)という意味になるのもわかるね。

(1)の文の enough は「十分に」という意味ではなく、as と同じように、どの程度親切なのかを述べるための合図のような単語だと考えておけばいい。「十分親切な」ではなく、「以下に述べる程度の親切さ」だと言っているんです。親切さの程度を具体的に指し示すのが不定詞 to invite の役割です。

前置詞の to は基本的には車の燃料計の針のように、ある位置を指し示す働きを持っていたね。その性質を利用して enough と to を相関させたのです。だから意味は、彼女は親切です、どの程度親切かというと、(toという針が指し示すところをよく見てくださいよ)私をパーティーに招待してくれるくらい親切なんです、となる。こなれた日本語にすれば、親切にも彼女は私をパーティーに招待してくれたとなります。単純ですね。英語では形容詞が enough, too, so, as といった副詞群といっしょに出てきたら要注意ということです。

"Will you marry me?" he said.

"No" she told him just as much.

この much には「多い」というニュアンスはありません。「『いやよ』と彼女はそれだけしか言わなかった」となります。as much や so much を見て頭の中に「多い」とか「たくさん」という意味が浮かんでいる人は考え方を根本的に変えなければなりません。」

さて、

(2)The box was too heavy for me to carry.

である。以下は私の授業の実況中継である。

「ここに水の入ったコップがあります。この水を指して、『多すぎる』と僕が言ったとすると、皆さんは不思議に思うでしょう。飲むのに多すぎるのか、手を洗うのに多すぎるのか、わかりませんね。でもここにお猪口があります。これに水を注いでみましょう。ほら、水が余ってしまってこぼれますね。こぼれた水は余りですね。コップの水は『余りに多かった』という表現はここから生まれました。英語の too という単語はこの状態を指すのです。つまり、ある許容範囲を超えた、という意味なのです。だから、The box was too heavy の意味は、その箱はある許容範囲を超える重さだということになります。そして、許容範囲はどこまでかというと、for me to carry が示しているように、私が運べる重さまでということになります。too はそれを超えていることを示しているのですから、結果として運べません。つまりここでも不定詞 to carry は許容範囲を指し示す針の役割をしています。

それだけのことです。どうですか、難しくないでしょう。繰り返しますが、形容詞と enough, too, so, as といった副詞群の結びつきは英語の発想を理解するのにとても重要な箇所です。特に形容詞の立証責任という考え方は忘れないで下さい。長文読解でも、筆者の主張の中には必ずといっていいほど形容詞があります。それに気づけば、英文のかなりの部分が具体例による立証だとわかるのです。英文を巨視的にとらえるのに欠くことのできない視点ですね」

相手が高校生であればもっと例文を挙げ、長文読解問題へのアプローチへと発展させるのだが、中学生でも最低これくらいのことは説明すべきであろう。しかし、You Tube の授業を見る限り、「合格させるだけではなく、高校入学後を見据えた学力の養成に努めます」との宣伝文句は虚しく響くばかりである。N 開センターは経営を考えるなら、一刻も早くこの授業の配信を止めるべきだと思うが、内部に英語がわかっている講師がいない以上、無理なのかもしれない。私も余計なお節介はこれで止めることにする。