未来塾通信26


身体と命が納得できる場所へ

■ここ数年、折にふれて若い人たちの価値観や行動の仕方が変わってきていることを感じる。27年間も塾の教師をしながら定点観察をしているといやでもそのことに気づかされる。今年も大学や大学院を卒業して就職が決まった元塾生が遊びに来た。「就職が決まりました」と言うので、「おめでとう。よかったね。で、どこに決まったの」と聞くと、「○○に決まりました」と言う。世間的には誰もがうらやむような超一流の会社である。「就職難の時代なのに、よかったね。前途洋々じゃないか」と言うと、「ええ、まあ、ほっとしました」という返事が返ってくる。ほっとはしているけど、どこか素直に喜べないといった風情なのである。「今は大学を出ないと派遣社員にもなれない時代だよ。もし就職が決まらなかったら、いっぺんにフリーターになってしまうのが現実だ。もっと喜んでもいいだろう」と言っても、どこか乗り切れない感じである。就職が決まって、同じセリフをあちこちで聞かされてきたからだろうか。

 私が学生の頃は、高校の優劣は一流大学の入試の合格率で決まり、大学の優劣は一流会社への就職率で決まると公言していた者もいた。公言せずとも、大人も若い人も同じような価値観を持っていたように思う。だから、一流会社に就職が決まろうものなら、まるで天下でも取ったかのように喜んだものだった。息子の就職先を近所に自慢してまわる親もいたが、みっともないとは思っても共感できる気もした。今の若い人たちに比べると、単純で、無神経だけれど、幸せだったのかもしれない。日本が経済成長を続けていた上り坂社会の頃のことである。

 それにくらべて、今の若い人たちは決して喜んではいない。就職が決まったのだから安心はしている。しかし、そこに自分が情熱を傾けていけるような世界を感じることができないとでもいうように、冷めている感じがする。彼らに言わせると、親や自分のまわりの大人たちを見ていて「結局、自分もこの道か」と思ってしまうとのことである。「この道」とは、消費者として市場と結ばれている世界のことだ。人より少しでも多く稼ぎ大量に消費をすることが豊かさなのか。グローバルな競争の中で大きなシェアをとり、環境に負荷を与え、会社を発展させていく道に入っていくことが、ほんとうに自分の幸せになるのだろうか。そういったことを意識的・無意識的に感じているので、生きるという感覚を根源的なところから見直してみたいが、もう就職は決まっている、引き返せない、というのが単純に喜べない理由なのかもしれないと、彼らと話していて思った。

 「何事であれ、とにかくまず経験してみなければわからない。会社に入ったら5年間はがむしゃらに働くことだ。その5年間は自分の思い通りには生きられないだろう。でも、そういった制約の中でしか、自分がほんとうにやりたいことは見えてこないよ。幸い君たちはまだ若い。時間はたっぷりある。やりがいを見出して会社に残るもよし、別の道を選択するもよし、決断はそのときにすればいいんだ」と、これまた通り一遍なことを言って彼らを見送った。私は深いため息をついた。5年間か。何を根拠に5年などと言ったのだろうか。

 私たちの世界にはいろいろなスケールの時間が併存している。インターネットの中を駆け巡る時間。里山にゆったりと流れる時間。こどもの身体の中を流れる時間。大人が身をおいている時間。宇宙が生まれ消滅していく大きなスケールの時間。本来、時間とは多種多様で多層的に流れているものだ。ところが、現代社会では、多かれ少なかれ情報化された市場経済社会の絶対時間とでも言うべきものがすべての人を拘束している。この拘束から逃れて、ある場所に積み重なった時間を発掘するには、考古学的な想像力を必要とする。誰の言葉だったか、「あらゆることが一度に起こらないために、時間は存在する」というフレーズが不意に頭に浮かんだ。あらゆることが一度に起これば、人は起こった出来事の因果関係をたどることができず、相互の関連性も見失う。その結果、正確な価値判断を下すことができなくなる。ある出来事に意味が生じるためには、時間の経過が必要なのだ。そのときには気づかなかったことでも、時間が流れて初めて事の重大さに思い至ることもある。しかし、無時間の情報社会は、氾濫している情報の中から選択することだけを人に要求する。その情報が生まれ、消えていく歴史は問われない。今日の市場経済も又、現在の利益や効率だけを私たちに迫る。市場経済がいかに生まれ、いかに滅んでいくのかは、この経済にとって関心ごとではない。人はどのような歴史を経て、今どんな時代を生きているのかを知りたいのである。どうして今日の社会が作られたのか、なぜ私たちは現在のような生き方をしているのか。積み重なった時間、流れた時間、過去の時間である歴史もまた多層的に形成されているはずである。そしてその中での人々の生活が見えなくなれば、歴史は消失していく。そうなれば、私たちは情報都市の漂流民と化していくしかないのだ。

 人間の理性・知性、合理的な認識と判断、科学や技術の進歩、自由と平等といった近代的世界で輝いていた言葉は、急速に色あせてきたような気がする。そして、そういった言葉をよりどころに生きてきた自分という存在に私たちは倦んでいるのではないか。理性や知性で判断すれば、自分が客観的には恵まれた会社に就職できたことはわかる。しかし、そこは、自分が還って行きたい場所ではない。自分の存在の確かさが見つけられる場所ではない。頭で納得できても、身体と命が納得できない。知性や理性はいくらでもごまかせるが、身体と命は違う方向を向いている。質素でも、つつましやかでも、自分の身体が納得し、命が納得する、近代的な枠組みとは別の、歴史を感じ取ることのできるローカルな世界で生きてみたい。就職できたことを心から喜べない根本的な理由は、ひょっとするとこういう無意識的な抵抗にあるのではないかと思った。