未来塾通信23


塾の選択に迷っている保護者の皆様へ

■今日、私たちは「次第にたちゆかなるかもしれない」という怯えと不安の中で生活している気がします。いったい何がたちゆかなるのか。自分の生活が、なのか。仕事が、なのか。人間関係や家族が、なのか。現在は、個人レベル、家庭レベル、社会レベルのさまざまな不安が現実化するときを待っているような、そんな時代です。


こういった不安は教育の分野にも浸透して、教育格差・学力格差という言葉があたりまえのように使われています。そして、教育格差は親の経済力に比例しているという言説が最近の流行です。私が子どもだったころ、一部の金持ちは別として、みんな貧しかったし、親の経済力とは関係なしに勉強ができる子どもはたくさんいました。学校に行けば、教師たちは子どもたちの境遇に関係なく、平等に学習の面倒を見ようとしていました。一体何が変わったのでしょうか。

1980年代半ばを境に、消費主体として分断された個人や家族は、経済力に応じて自己実現のためのさまざまな手段を手に入れようと奔走し、地域共同体の桎梏から逃れようとし始めます。その結果、学校は存立の基盤である地域共同体の支えを失ったのです。情報化社会はこの趨勢とパラレルに進展していきます。そして、すぐれた情報もそうでないものも等価に人々の前に投げ出される。企業は情報の差別化を加速する。心脳コントロール社会の登場というわけです。結果として、情報の価値を識別する能力のある層とそうでない層がくっきりと色分けされるようになります。経済的な格差は情報識別能力と比例して広がっているのです。

教育の世界に話を戻しましょう。教育格差を生み出しているのは、親の経済力ではありません。経済力があっても、もっともらしい情報を鵜呑みにして振り回されている親が多いことを考えると、「教育格差を生み出しているのは、親の経済力」という主張には無理があります。これは、現象を結果から見ているに過ぎません。経済的な格差は原因ではなく結果なのです。結論から言うと、教育格差を生み出しているのは、実は家庭の文化力なのです。この文化力には二つの側面があります。一つは、子どもにきちんと挨拶をさせる、朝ごはんは必ず食べさせる、夜更かしをさせない、家の手伝いをさせるといった生活の基本的な型を作る力のことです。しつけをきちっとして、学習に向かわせる姿勢を身につけさせることは、本来、経済力とは関係なく家庭でできることです。二つ目は、親の情報識別能力です。具体的にいうと、子どもたちが学ぶ知識にレベル差があることを親が理解できているかということです。例を挙げてみましょう。知識には以下の4つのレベルがあります。

1:分数の割り算のやり方を知っているレベル。

2:なぜ、分母と分子をひっくり返して掛けるとよいのか、その理由を理解しているレベル。

3:こういった知識を持っていることが教室の中でどのように評価されるかを知っているレベル。

4:このような評価の仕組みが、疑われることのない、当たり前のこととして受け入れられている世の中のからくりを知っているレベル。

現在は、この知識のレベル差に応じて教育格差が広がり、結果として、経済格差につながっているのです。文化資本主義とよばれる所以です。そして、学校やほとんどの進学塾で教えられる知識は1のレベルで止まっています。私が塾で確かめると、2のレベルに達している生徒は実に少ないのです。2は一応教えられていても形だけです。分数や割合の本質、分数の割り算が通分と関係していること、それが中学・高校の数学の中でどのように生かされていくのかなど、ほとんど理解できていません。

ファーストフード店に代表される外食産業の接客マニュアルを思い浮かべてください。それは、かなり接客能力の低い人を前提に、大量に、最短の時間で、とりあえず最低限の社会的基準(学校の定期テストや高校入試必勝マニュアルに当たります)をクリアすることを目的に作られています。その結果、このマニュアルをクリアしても、能力は低いままなのです。この低い能力を社会的基準以上に高める仕組みはありません。どんな客にも同じパターンを、機械のように繰り返すだけです。返答の仕方、笑い方まで決まっています。相手を見て対応することなど不可能なのです。しかし、それはそれで、社会の必要性に答えています。手軽で早いことは価値の一つですし、それだからこそ逆に消費者は安心できる面もあります。

すべての方法には、それぞれの目標があり、前提とする能力、その方法によって高められる能力のレベルが決まっています。それをしっかり見極め、自分が求めている能力にふさわしい方法を選ばなければなりません。そして、この点こそが大事なのですが、多くの方法は、能力の現状をそのままに、それをいかに有効に使えるかだけを問題にしています。入試問題の解き方だけを覚えても、その前提である能力そのものが現状のまま維持されるのであれば、学ぶことそのものは永遠に続く苦役になるでしょう。結果として、「教科書や参考書にのっているようなすでに内容が決まっている知識を、ある量、なんとかテストまでに頭に詰め込む」ことが勉強と考え、それを少しでも楽に効率よくさせてくれるのが勉強法だと考えるようになります。

中核的な概念、知識、公式などと、周辺部とが関連付けられているような知識体系が有効で、そのような知識体系の形成を目指して勉強しよういう発想は出てきません。私が塾で教える方法は、能力を伸ばすこと自体を第一の目的としています。ですから、努力が必要です。「最短時間」で「効率よく」、というわけにはいきません。

もちろん、塾は「最短時間」で「効率よく」生徒の学力を伸ばし、不況ともなれば「最小の費用」でという要求にも応えなければならない産業です。学校と違い、激しい競争にさらされ、「市場の淘汰圧」を受けていることで人々の信用を得ています。「この情報になら対価を払ってもよい」という消費者が一定数確保できなければ存立できません。その厳しい条件が塾の発信する情報の質を保証していると人々は考えているようです。

原理的には確かにそうかもしれません。しかし、現実はそうではない。「この情報になら対価を払ってもよい」という情報消費者の「ニーズ」に迎合することで、塾の発信する情報の質は一貫して低下し続けているのです。生徒を増やそうとすれば、宿命的に塾は「よりリテラシーの低い不特定多数の保護者」を相手にしなければならないからです。つまり保護者が「興奮する素材」を絶えず提供し続けなければ生き残れないということです。塾が提供できる「興奮する素材」とは「合格実績」と「受講料の値下げ」しかありません。

食品の産地偽装や汚染米の流通が問題になるのは、健康に大きな影響を与えるからです。しかし、人間の心や精神に影響を与える知的情報の偽装や汚染度は、影響が目に見えないために問題にされません。私は知的情報の劣悪さが子どもたちの日々の振る舞いや思考にどのように影響を与えているか、目の当たりにしています。情報識別能力のある家庭の文化力とは、直感的であれ、意識的であれ、こういったことのからくりがわかっていることを指します。

労働力は商品ではありません。同様に、子どもたちの学力もファーストフード店で売られている商品ではないはずです。魂をもった子どもたちを商品扱いすれば、そのツケはかならず払わなければなりません。家庭の中でも、国家のレベルでも。ですから、私は入塾を子どもの現在の学力で計りません。きちんとしつけがされているか、勉強する意欲があるかだけを判断基準にして、先着順で受け入れています。この方針は26年間変わっていません。

最後になりましたが、実は知識のレベルには5があります。それは、「このような評価の仕組みが、疑われることのない、当たり前のこととして受け入れられている世の中のからくりを知って、それをどう変えていけばよいのかを知っているレベル」です。これは教育の最終目的であり、価値判断の問題になります。そして、知ることは価値判断と無縁ではない。つまり、知ることは、どう生きるかということと結びついているのです。以上のことを、塾選びをする際の参考にして頂ければ幸いです。