未来塾通信22


働くことと学ぶこと 1

■「実際に働いてもいないのに働くことの意味を問い、ろくに勉強もしていないのに、学ぶことの意味を問うのは、順序が逆だ。働くことの意味も学ぶことの意味も、実際に働き、学ぶ過程で分かってくるものである。だからとにかく働いてみろ、学んでみろ」という言説は正しい。そのとおりだと思う。内田樹氏などがあちこちで繰り返し書き、発言している。しかし、ある言説が有効かどうかは現実のなかで試されなくてはならない。

 今ここに「ひきこもり」や「フリーター」の息子がいるとする。その息子に対して親が上のせりふを吐いたとする。「ひきこもり」の息子が翌日から働き出し、「フリーター」の息子が正社員になれるとはとうてい思えない。「ひきこもり」も「フリーター」も私たちの社会が半ば必然的に生み出したものだからだ。不登校の子どもに、とにかく学校へ行けというのと同じくらい実効性のない言説である。売れっ子ライターで、どんな問題にもコメントできると公言する内田氏は『下流志向』の中で次のように書いている。《去年、ある国立大学で集中講義をしたときに、その大学の新聞部の学生からインタビューを受けたことがあります。その学生が発した最初の質問が「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」というものでした。その問いを発した学生は、もし僕がこの問いに説得力のある回答をしたらそれを学んでもよいが、僕の答えに納得できなければ「学ばない」と宣言しているわけです。つまり、ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。僕はこの傲慢さと無知にほとんど感動しました。》(内田樹『下流志向』P75〜P76)
 
 人間は自らの生の物語を絶えず編成し直すことによって、自分という存在のありかを確認しつつ生きるように運命づけられた存在である。働いていない学生が働くことの意味を考えることは決して無駄ではない。自分が学ぼうとする学問分野に対して原理的な問いを発することや、現代社会における有用性を考えることは当然で、少しも不自然ではない。しかるに、神戸女学院大学で教鞭をとっている内田教授の学生に対する反応に私は驚いた。以前、養老孟司氏の言説に対する違和感が、基礎的な知識不足と発想の偏りに由来することを指摘したが、それと同質のものを感じた。ひとことで言えば、自分の思い込みを正当化しすぎるのである。この二人の発想が酷似しているのは、対談本で意気投合しているのを見ても分かる。類は友を呼ぶのである。
 
 そもそも学問とか知識とか呼ばれるものは、その時代や社会が抱えた深刻な問題を汲み上げ、その原因を探し当て、どうすれば解決できるかというところにその本来的な動機を持っていたはずである。それは常に、いかによりよい政治実践や社会実践を行うかという意思と密接に結びついているべきものである。ところが近代以降、社会システムの複雑化に対応して学問の細分化と専門化が著しく進み、その結果、学問や知識の本来的な動機がいつの間にか忘れられ、ことに人文系の学者はごく限られた専門領域で浮世離れした認識の精細さを競っていればそれだけで何か価値があるかのような錯覚に支配されるようになってしまった。医者になろうとするものが「医学を学ぶことの意味は何ですか?」などと問うことはない。だからこそ、逆に、何らの実効性を持たないように思われる「現代思想を学ぶことの意味は何ですか?」という問いは、まとも過ぎるくらいまともである。
 
 しかし、内田氏は《その問いを発した学生は、もし僕がこの問いに説得力のある回答をしたらそれを学んでもよいが、僕の答えに納得できなければ「学ばない」と宣言しているわけです。》と解釈する。どういう思考回路を持っていればこういう発想になるのか。しかもこの問いを発したのは新聞部の学生である。素朴な疑問を学生を代表してぶつけてみただけのことではないのか。さらに、《ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属しているということを、問いを通じて表明しているのです。》などと断定する。「う〜ん、鋭い。さすが内田樹だ。こういったありきたりなやり取りの中にも現代の若者の病理を見出しているのだな」という読者の反応を期待していることが見え見えで、正直に言ってばかばかしくなる。思い込みもはなはなだしい。普通の大学生がそんな大それたことを考えているわけがないではないか。もしかしたら、この学生の問いは自分に向けられた批判かもしれないと内田氏は考えなかったのだろうか。私は内田氏の自己を省みる能力の低さに唖然とし《傲慢さと無知にほとんど感動し》たのである。
 
 しかし、恥ずかしげもなくこういう断定を下す内田氏の発想は理解できなくもない。夏目漱石を読むのに、フランスの思想家であるフーコー、デリダ、ドゥールズ、ラカン、あるいはレヴィナスのアイディアを借用して、斬新な論文を書いた気になっている新しもの好きの国文学者と同じ発想である。「私の考えの90%以上は他人の考えの借用である」と謙虚さを装ってはいるものの、氏はブリコラージュ、他分野借用という方法を誤解している。ある分野を専攻することで身につけた本質的な構造把握力を他の分野に応用し、両者に共通する型や構造を見抜いて、そこに問いを立てるという丁寧で精密な作業を内田氏はしていない。氏の評論は、喩えて言えば、デパ地下で買ってきた老舗の料亭の料理や有名レストランのデザートを皿に盛り付けて、自分の選択眼の良さと情報通を自慢しているようなものである。読後に何も残らない。時間と手間をかけて自分で料理したものなら、味が多少劣っていたとしても、その気持ちだけは相手に伝わるものである。
 
 私が内田氏を批判する理由は、氏の発想が実は格差社会の勝ち組と言われる人の多くに共有され、現実をリアルに見ることを妨げるのに一役買っているからである。特に、教育にまつわる本当の問題点がどこにあって、どうすれば解決できるのかという実践的な案を氏は一切語っていない。語れないのである。(以下通信23に続く)