未来塾通信19


おなじ心ならん人と ー 孤独について ー

■2007年の大晦日から元日にかけ、中庭の見える談話室に閉じこもってバッハのヴァイオリン・ソナタ第一番から第6番までを、フランク・ペーター・ツィンマーマンのヴァイオリンとエンリコ・パーチェのピアノで聴いた。ヴァイオリンとピアノの好きな方には一押しのCDである(SONY: CD2枚組¥3,780)。今から15年前、1993年の早春、英国を旅したときに買ったダウンジャケットを着込み、両手を炭火であたためながら室温3℃ の部屋で聴くバッハはツィンマーマンの天才的な技量ともあいまって明晰さの極致に達していた。一年分の精神の疲労が取れるようないい音色だった。ちなみにオーディオはスピーカーの振動板が木製(樺の木)のビクター・ウッドコーンである。

 我が家はローコスト住宅なので、複層ガラスではなく一枚ガラスである。おかげで外気温と変わらない室温を体感できるし、野鳥の声も良く聞こえる。この時期、冬の冷たい空気を切り裂くようにヒヨドリが超高速かつ低空飛行でやって来て、建物にぶつかる寸前のところで反転して冬枯れの枝にとまる。私はかれらの曲芸にいつも拍手を送る。以前曲芸に失敗したヒヨドリが幅4メートルのFIXの塾の窓に激突した。庭に下りてそばによると、半開きの目は灰色に濁り、息を引き取る寸前だった。そっと手のひらにのせると羽毛をとおして体温が伝わってきた。くちばしを大きく開け赤い舌を痙攣させた後、ゆっくりと目を閉じた。

 手元をあたためるには炭火を用いる。ときどき乾燥した音をたててはじける炭の匂いと火鉢の中で溶岩のように赤く燃えている炭の風情は遠い少年時代の記憶を呼び覚まし、火鉢でもちを焼いてくれた祖父母の記憶をも蘇らせてくれる。高気密高断熱、24時間強制換気、床暖房の上複層ガラスのサッシを用いた「先進の住まい」は日本文化のエッセンスを追放し、空間から生命感をなくし、闇を嫌い、朽ちることを嫌い、過去とのつながりを絶つ。そして無国籍の洒落たセンスの空間がとって代わる。様々なメディアや雑誌を通して教育され吹き込まれた美。まるで人の記憶を宿すことを拒絶しているかのようだ。住宅は眠っている記憶のかけらを呼び覚まし、つなぎ合わせていくことのできる場所であって欲しい。そして人と人が自己の存在と居場所を確認しあうことができるように過去から未来へ向かって開かれている場所であるべきだ。なぜなら、確かな記憶が宿らなければ人は自分の生を肯定し、未来にむかって踏み出すことができないからだ。

 そんなことを考えていると、先日相談に来た女子高生Aさんの孤立無援だと言わんばかりの悲しそうな表情が脳裏に浮かんだ。学校の人間関係で緊張し疲れきってしまうということだった。深刻そうな彼女の表情を見つめながら、私はただ話を聞くだけで適切なアドバイスはできなかった。悩みの深さも回復の仕方も、それぞれの人間が宿命的に帯びている個性に応じて様々だ。私は自分の経験も踏まえてかろうじて次のように答えた。「クラスの全員あるいは友達全員が、君の長所も弱点も知り尽くし、嫉妬や憎悪を含んだ感情さえも完璧に理解してくれることを君は望んでいるの?他人から理解され、個人的に好かれることがあっても、それはその時だけの一時的なものだと考えた方がいいと思う。一時的なものだからこそ、それを幸運だと思ってその瞬間を大切にすればいいんだよ。誰かに嫌われたり、憎まれたり、蔑まれたり、陰口をたたかれることのほうが普通だと思えば、そういった瞬間が貴重だとわかるんじゃないかな。生きていくうえで心に受ける生傷は、君が君であり続けるために支払わなければならない代価なのだよ。でも、傷つくのを恐れるあまり理解してもらいたいという気持ちを捨てる必要はない。なぜなら人間は生きている限り理解されることを望んでいるのだからね」

 若い時はあまりに求めることの多い心をかかえているがゆえに、あまりに心の友を求める思いが強いがゆえに、それが満たされないときの傷も深い。それは若さに課された刑罰のようなものかもしれない。いや、若さに関係なく人間に等しく課された「孤独」という刑罰なのだ。

 徒然草の十二段に「おなじ心ならん人と」という短いけれど心を打つ文がある。
「おなじ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、ひとりあるここちやせん・・・・」

  (まったく気の合った人としみじみ語り合って、興味のあることでも、何でもないちょっとした事でも、おたがいにへだてなく話して心をなぐさめることは、さぞうれしいことだろうと思うのだが、そういう人はあるはずもない。だから、気の合った人が話しているように見えるのは、相手の言葉に少しでもさからわないようにと気をつけて話しているのであって、そんな気持ちで話していたならば、まるでひとりぼっちでいるような気持ちがすることであろう) 

  ああ、人間はいつの時代にも「おなじ心ならん人」を求め続ける存在なのだ。そういう心は、はるか昔にどこかに置いてきたと思っていても、生きている限り人間につきまとう。

 だからAさん。あなたが感じている切々たるつらさは、あなたの内にあふれんばかりの生が存在していることを証明しているのであって、それは、人として生きていく限り消えないつらさ、あなた自身の存在を証明するつらさなのかもしれず、魂を削るようなそのつらさは、この世界のどこかであなたを待ち続けているかも知れない「おなじ心ならん人」と幸運にもめぐりあったときにかろうじて癒される、そういうつらさなのかもしれないのだよ。

  しんしんと冷え込む冬の午前の白い光が充ちた部屋にいて、私は心の中でAさんに語りかけてみる。