未来塾通信18


呆れた塾の実態 ー 知的な中学・高校生のために ー

■先日、ある高校の英語の先生からメールをもらった。要点は大分市の中心部にあるS学館のN塾長(女性)のブログの感想をきかせてほしいというものであった。私はそもそもブログに興味がない。中身の信憑性もさることながら、お手軽な自己表現欲求そのものに対して懐疑的である。パソコンとケータイが普及し、誰もが情報発信できるようになった社会では、プロの表現者が日常の中で感じる微妙な違和感を言語化しようとして発した言葉と、現状を追認するだけのキャッチコピーが、同じ言説空間の中に「等価」な「情報」として投げ出される。その結果、優れたものもくだらないものも一緒に押し流され、淘汰の力学が健全に機能せず、価値ある言葉をじっくり見極めるだけの判断力を働かせる余裕がなくなる。人々の生活感覚や価値観は平準化され、何が自分の生にとって本当に問題であるのか、先入観抜きに率直になってみたら本当はどう感ずるのか、といったことが隠蔽され精神のローカルカラーをなくしてしまう状況を作り出す。世の中が生きにくい場所になっていくのはこういったことと関係している。だから、正直に言ってN塾長のブログに興味はなかった。しかし、読んでびっくりした。というか呆れてしまった。私はかって通信の中で「学力低下は塾のせい(PART1・2)」だと主張した。その根拠となる見事な具体例がここにあるので、以下に私の率直な感想を書こうと思う。ちなみにN氏は津田塾大学英文科を卒業し、英検1級の実力の持ち主だそうである。英語力がピークだった(?)大学4年次には、英語と同じくらいフランス語も話せたとブログに書いている。

(1)N氏の「英語の話」について論じる前に、「国語の話」を読んで感じたことを述べてみよう。N氏自身が主張しているように、国語力こそがその人の知的レベルを何よりも雄弁に語っているからだ。2007年2月27日、「国語についてのある仮説」と題するブログから原文のまま引用する。

『現代文が苦手な生徒を指導していて2パターンの生徒がいる。

1:本文と問題を全然読んでいない。

2:日常のコミュニケーションが困難。

1の生徒は100点満点で30点レベルの生徒ではない。100点満点で60点レベルの生徒が多い。しかし本文と問題を全然読まないという悪い習慣を矯正するのには時間がかかる。2の生徒は100点満点で30点レベルの生徒が多い。特に小説と古文が壊滅的。感情論や常識が苦手。他の教科の成績がよくなくても、国語だけいい生徒をみかける。それらの生徒に共通していることは、よくしゃべり、コミュニケーションがスムーズであることだ。2の生徒の場合、私は指導をお断りする。その前にすべきことがあるからだ。一見、日々の会話なんて、全く無為なものだと思われがちだが、実は国語力を育成する大切な時間の積み重ねなのだ。』

 「国語についてのある仮説」という題名なので、何か指導上の新しい発見でも書かれてあるのかと思って読んだ。しかし中身は「国語についての意味不明の独断と偏見」で、「仮説」はどこにもなかった。私は何度もイナバウアーしてしまった。こういう文章を書く知的レベルの人が、果たして生徒を指導できるものなのか。「本文と問題を全然読んでいない生徒」がどうして「100点満点で30点レベルの生徒ではない。100点満点で60点レベルの生徒」だとわかるのだろう。そして「本文と問題を全然読まないという悪い習慣を矯正するのには時間がかかる」そうだ。私なら「本文と問題くらい読め!君は勉強する気があるのか!」と一喝する。数秒で済む。どういう指導をすれば時間がかかるのか。「別に強制はしないけど、本文と問題くらいは読んでね。あなたのそういう悪い習慣は矯正するのに時間がかかるのよ。でも先生はあきらめないからね」と、何週間も、何ヶ月間も言い続けるのであろうか。N氏は、何でも100点満点に換算しないと気がすまない人らしい。30点ではなく60点とする根拠は何か。そういえば上野丘高校時代、何にでも点をつけたがる教師がいた。心ある生徒の顰蹙を買っていたものだ。N氏の発想のどうしようもない貧しさと偏狭さを感じざるを得ない。

 次に「日常のコミュニケーションが困難」な生徒は「小説と古文が壊滅的」だそうだ。日常のコミュニケーションが困難であればなぜ小説と古文が壊滅的なのか。評論文は壊滅的ではないのか?N氏は別の箇所で「受験レベルで使用されている日本語や思考と日常生活で使用している日本語や思考はかけはなれているはずだ」と述べている。あるところではコミュニケーション能力がなければ国語はできないと断言したかと思うと、別の箇所では日常のコミュニケーション能力はストレートに受験の国語力に結びつかないと主張しているのだ。この矛盾をどう説明するのか。要するに、N氏は勉強方法に関する本を読みかじって、そのとき記憶に残ったものを書いているだけで、自分の頭で考える能力に欠けている。だから自分の思考が矛盾していることに気付かないのだ。そして2の生徒は「感情論や常識が苦手」だそうだ。この日本語がまたわからない。大学入試の国語の読解問題で、「感情論や常識」が一体何の役に立つのだろうか。感情論が苦手な性格とは、冷静に話したり考えたりする性格のことだろう。コミュニケーションが困難なこととどう結びつくのか。要するに、コミュニケーションが苦手な生徒は小説の登場人物の心理が読めないと勝手に断言したいだけである。さらに、「国語だけ(成績の)いい生徒をみかける。それらの生徒に共通していることは、よくしゃべり、コミュニケーションがスムーズであることだ」とあるが、本当か?私は無口で引っ込み思案だけれども、国語力がある生徒を何人も知っている。N氏は齋藤孝氏を筆頭とする今はやりの薄っぺらなコミュニケーション論に影響されて、どうでもいいおしゃべりをコミュニケーションだと勘違いしているだけである。そして、「2の生徒の場合、私は指導をお断りする」そうだ。私なら、一見コミュニケーションが困難に思える生徒の指導を選ぶ。むしろ「本文と問題を全然読まないという悪い習慣」をもったふざけた生徒の指導を断る。さて、このブログの最後の箇所、「一見、日々の会話なんて、全く無為なものだと思われがちだが、実は国語力を育成する大切な時間の積み重ねなのだ。」とあるが、「日々の会話なんて、全く無為なもの」の「無為」の意味をご存知だろうか。普通は「無為に日々を過ごす」のように、「何もしないこと」の意味で使う。 わずか十数行のブログの中にこれだけ意味不明な箇所がある。素朴に考えて、N氏が国語を指導できるとは到底思えない。英語力の前に国語力が必要だと力説するN氏の国語力がこのレベルでは、N氏の英語力も怪しくなってくる。

(2)次に本題の「英語の話」について感想を述べる。

2007年2月25日「英文法の定着って?」の中の記事

『1:I go to school to practice tennis every Sunday.

・to practice 不定詞 副詞詞的用法 〜するために

・practice 練習する

2:I will have a tennis game.

・will 助動詞 未来形

3:I want to win the game, so I practice tennis harder than the other member.

・want to 不定詞 名詞的用法 〜したい

・win 勝つ

・so 〜だから

・harder than 比較級 〜より

・the other 他の

たった3文を訳すのに、これだけの知識が必要になる。英文法の定着は文章を見た時、「ぱっ」とこれらの知識が浮かび上がってくるかどうか。できたかな?』

そして次の日、2月26日の記事

『この記事に誤りがありました。to practiceは「不定詞 副詞的用法 〜するために」です。記事において、英語の具体的な事項を書いていなかったのは、誤りがあった場合、すぐに修正できないからです。英語の具体的な事項に関しての記事を今後は増やしていきたいと思うので、英語の具体的な事項の記事の場合、必ず他の先生に校正を頼みます。指摘いただいてありがとうございました♪自分ではなかなか気づかないものです。』

 英検1級を取得し、津田塾大学英文科で「英語学」を学んだN氏には申し訳ないが、この内容を読んだとき私は赤面し、なんともやるせない気分になってしまった。塾長の英語力がこのレベルで、加えて他の先生が校正したのが上記の記事だとしたら、この塾が存在していること自体が不思議だ。以下具体的に述べる。

1:I go to school to practice tennis every Sunday.「私は毎週日曜日、テニスの練習をするために通学している(学生をしている)」という例文の不自然さは置くとして(実は説明に使う例文こそが授業の生命線なのだが)、to practice という不定詞の用法を間違えていたとのことである。それは単なる入力ミスだろうか?そうとは思えない。なぜなら、3でwant to を不定詞の名詞的用法と説明しているからだ。want to は不定詞ではない。学校文法的に言えば、want to win のto win が不定詞である。want toが不定詞の名詞的用法であれば、文中で主語や目的語や補語になるのだが、私はそんな英文にお目にかかったことがない。N氏はそもそも不定詞を根本的に理解しているのだろうか。「指摘いただいてありがとうございました♪自分ではなかなか気づかないものです。」と書いているが、この箇所を指摘してくれる人はいなかったのだろう。そもそも、不定詞を名詞的用法・形容詞的用法・副詞的用法に分類するやり方は英語嫌いを確実に増やすだけだ。前置詞to の root sense を様々な例文で説明する方がずっとわかりやすいし、応用力もつく。

2:I will have a tennis game. について。

こういった例文でwill を助動詞・未来形と説明するのは、そもそも間違いである。単純に、I have a tennis match (tournament) tomorrow. のように、未来を表す言葉をつければよい。それにしても、未来を単純未来と意志未来に分けて説明するやり方が、大手の塾や中高一貫の私立中学などでいまだに行われているから驚く。教えている本人はわかっているのだろうか。「英語の未来形はwillを使っておけばよい。それ以外は会話で使われる特殊なパターンだ」という、実状とはまるで違うことが教えられている。これではまともな英語力がつくはずがない。ではどうすれば「これから先のこと」を、自信を持って英語で表現できるようになるのか?そのためには以下の2点を押さえておかなければならない。

          [1]英語には未来形は存在しない 

          [2] willは強い(1)意志と(2)予測を表す。

 未来はわれわれにとって多くの場合、意志と予測の対象であるから、「これから先」のことを表すのにwillが使われるに過ぎない。ポイントを簡単にまとめてみよう。

 (1)willが意志を表す例文を挙げてみる。「何時までに終わらせるつもりだ?」と聞かれて「6時までだ。I will finish it by 6 o'clock.」 と強い意志を表す。「金貸してくれよ」と頼まれて、「いいよ。I’ll lend you some.」と答える。「試験に受かれよ」と言われて、「一発で受かってみせるさ。I’ll pass the test first time.」と応じる。「奴との結婚は許さん!」と言われても、「絶対結婚するんだ!I’ll marry him!」と強い意志を示す。要するに、相手に何か言われたときに、その場で考えて意志や意向を表すにはwill+原形動詞を使う。もうやるとすでに決めていることについて述べるときは、be going to +原形動詞を使う。「will=be going to」という等式は正しくない。だから、子どもに宿題を手伝ってと頼まれた父親がその場で考えて、午後手伝うつもりであれば「I will do it this afternoon.」と言わなければならない。「I’m going to do it this afternoon.」と答えるのは間違いである。あるいは、好きな男の子から明日テニスをしようと誘われたとき「I will play with Masao.」と答えると、誘われてから判断して「あなたとするよりマサオとしたほうがおもしろいわ」というニュアンスになって、彼と付き合うチャンスを失ってしまう。「Sorry I am going to play with Masao tomorrow. あるいはI’m playing with Masao tomorrow.」と答えれば、「予定が入っているなら仕方ない。あさってはどう?」と彼から言ってもらえる可能性が残る。この違いは大きいのである。もう一つ、be going to +原形動詞を使う場合がある。それは、現在の状況から考えて未来に起こることがはっきりしている時に使う。たとえば、飛行機に乗っていて尾翼が爆破され、操縦不能になったとする。そのとき、隣の席のアメリカ人に「We are going to die!」と言えばよいのである。彼は、あなたの卓越した英語力に深く感銘するだろう。(するわけないか?)「We will die!=死んでやる」とか「We’re dying!=死ぬことになっています」などと、トンチンカンなことを叫んで取り乱してはならないのである。

(2)willが強い確信・予測を表す例文。

医者が患者の家族に対して、Don’t worry: your son will get better soon.と言った場合「心配要りません。あなたの息子さんはすぐによくなるでしょう」という意味にとってはならない。「大丈夫。息子さんはきっとすぐに良くなります」という強い予測や確信を表しているのだ。だから、Shall we ask Tom to come along with us tonight? (トムが今晩いっしょに行くか誘ってみようか)に答えて、He will go to bed early tonight.と言うのは不可能である。この状況で、トムが今晩早く寝ることに対してwillを使うほどの確信など持ち得ないからである。せいぜい、No. He’ll probably go to bed early tonight:he usually does on Sundays.(いいや、たぶん彼は今晩早く寝るよ。だって、日曜日はたいていそうしているから)と答えられるくらいである。したがって、He will go to bed early tonight.を「彼は今晩早く寝るでしょう」と訳すのは全くの誤訳である。しかし、probablyという修飾語を使わずに確信に満ちた予測を述べることができる人もいる。それはトムに早く寝ることを強制できる主治医のような人物である。その場合の訳は「トムは今晩早く寝なければならない」が正解になる。Students will wear uniforms at all times.(生徒は常時、制服を着用のこと)や You will do exactly what I tell you to do.(私が言う通りにやりなさい)で使われているwill である。以上のことをしっかり押さえておけば、Boys will be boys.が「仕方がないよ、男の子とはそういうものさ」という意味になるのも理解できる。確信や予測が経験から割り出された強い法則性に変化しただけである。そうなると、My granny will sit staring out of the window for hours.が「おばあちゃんはよく何時間も座って窓の外を眺めている」という習慣を表すようになることも納得できる。このwillが過去形のwould に変わると、「おばあちゃんはよく何時間も座って窓の外を眺めていたものだ」という意味になるのはごく自然なことである。「過去の習慣のwould」などという特別な使い方などありはしないのである。

 さてN氏の例文にもどろう。I will have a tennis game.というtomorrow などの修飾語すらない文はどういう意味になるのだろうか。是非教えてもらいたい。さらに、試合=gameだとN氏は思い込んでいるようだが、私の手元にある中学生用の和英辞典には「● gameとmatchの使い分け:(米)ではふつう、野球(baseball)やフットボール(football)のように−ballのつく競技には gameを使い、それ以外のテニス(tennis)、ボクシング(boxing)、ゴルフ(golf)、クリケット(cricket)などにはmatch を使います」(講談社:ハウディ和英辞典p205)と書いてあることを付け加えておく。

3:I want to win the game, so I practice tennis harder than the other member.について。

 この文の解説?を見て驚いた。the otherは「他の」ではない。theとotherをセットにして「他の」と教えるようでは、N氏に英語教師の資格はない。まともな英語教師であれば、 the とotherを切り離して解説するだろう。ここには「名詞の数え方」という英語の最も本質的で重要な原則が顔をのぞかせている。私は英語における名詞の数え方(15通りある)を理解したとき、視界が急に開けたことをよくおぼえている。物や人が2つあるいは2人いるとき、一方をoneと数えると残りは1つあるいは1人に決まるのでtheをつけてthe otherと数える。N氏の例文ではotherは形容詞としてmemberにかかっているのだが、theもmemberにかかっていて、memberの人数を数えているのである。つまり、この例文では部員は2人しかいないことになる。廃部寸前のテニス部なのであろう。これは常識的に考えておかしい。英語の感覚が身に付いていれば、the other membersと無意識にmemberにsをつけてしまうものである。同時通訳などの場合、最も神経を使うのは名詞の数なのだ。N氏は通訳もしていたそうだが、まともな仕事をしていたのか怪しいものである。

 以前、塾の生徒が「ここにいるのは僕の友人で、向こうにいるのも僕の友人です」をN開センターの英語教師に英訳してもらったのを見せてもらったことがある。答えは「The man standing here is my friend and the man standing over there is my friend too」であった。私は一瞬絶句し、深いため息をついた。「This is a friend of mine and that is another friend of mine」という私の試訳を見せて、名詞の数え方を説明したことがある。ほとんどの塾・予備校や学校で教えられているのは、歴史や文化を背負っている言葉ではなく、人間をふるいにかけるための受験英語という非言語なのだ。さて、最後に「落ち」がある。N氏は上記3つの英文に関して次のように述べている。『たった3文を訳すのに、これだけの知識が必要になる。英文法の定着は文章を見た時、「ぱっ」とこれらの知識が浮かび上がってくるかどうか。できたかな?』と。現実は「たった3文の解説をするのにこれだけの無知をさらけ出している」のである。N氏は「私が英語が嫌いなのは周知の事実だ」とブログで公言している。その一方で「私の授業では英作文に力を入れており、中1のクラスで20問近い英作文テストを行っているが、みんな驚くほどしっかりとした文章を書いている。S学館生ではない生徒がどこまでの英作文力があるのかな?S学館生が一番でしょ!!!!」と大見得を切っている。N氏が言葉に対して最低限の謙虚さ(それは人間に対する謙虚さに通じる)を持っていればこんな文章を書くつもりはなかった。しかし、もう終わりにしたい。若い知的な中学生や高校生が、肩書き(多くの場合ほとんどがfakeである)に惑わされず、まっとうな批判精神を持つことを望むばかりである。