未来塾通信17


親が心しておくべきこと ー 経済原則と教育 ー

■ 2年ほど前、私は未来塾通信1および6で『学力低下は塾のせい!』と主張した。学者やマスコミ・経済界が、学力低下に対する非難の矛先を「ゆとり教育」に向けたとき、その論調のあまりのナイーブさに驚いたものだ。「ゆとり教育」が批判されなければならないのは、それを推進した文部官僚・寺脇研氏の初発の動機の中に潜んでいた「すでに美味しい果実を手に入れた者が、弱者ぶることによってさらなる果実を手に入れようとする」(ニーチェ)欺瞞性だ。

私は10年以上も前にそれをある雑誌の中で指摘した。従って、見当違いのゆとり教育批判を見て、何をいまさらという感じだった。それにしても、当の塾教師である私が、学力低下は塾のせいだと主張しなければならないとは、なんとも皮肉なめぐりあわせである。もちろん子どもたちの学力を本当に伸ばしている少数の例外的な塾があることを知らないわけではない。しかし、私が学力低下の原因を考えるきっかけになったのは、「学力低下が叫ばれる一方で、塾の数は増えていた。ゆとり教育で低下したとされる学力を塾が補っていれば学力の低下をある程度くい止められるはずだ。それなのになぜ学力は低下し続けるのか?」という素朴な疑問だった。

 23年も同じ地域で塾をやっていると、いやでも子供たちの変化に気付く。戦後、日本社会が「産業社会」から「消費社会」そして「情報・メディア社会」つまり「心脳コントロール社会」へと変わったことが、親や子どもたちの意識に影響を与えないはずがない。そして私が実感した最も大きな変化は1980年代後半から1990年代前半にかけてやってきた。一言で言えば、消費社会・交換経済の発想が子どもたちや教育を「製品」とみなし、それに外形的・数量的な付加価値をつけて親や学校の成果として周囲に示すことが当たり前になった。つまり経済原則そのものが、親や子どもたちの考え方や行動にストレートに適用されるようになったということだ。

 だから、諏訪哲二氏の『オレ様化する子どもたち』を読んだとき、驚きはしなかった。「ゆとり教育」を評価する諏訪氏と、私は意見を異にするけれども、諏訪氏が教育現場で遭遇する子どもたちの変化の背景には市場原理の帰結である「等価交換」的発想があると指摘した部分については、そのとおりだと思った(内田樹氏のように衝撃を受けたりはしない)。公教育の現場にいる多くの教師が、親や子どもの変化に翻弄されるなかで、まさに現実そのものから出発し、水準の高い(大学教師の思考の水準をはるかに抜いている)思想を練り上げた諏訪氏に私は陰ながら声援を送っていたものだ。しかし、私にしてみれば氏が指摘したことはあまりに当然に思えた。なぜなら、塾こそが「等価交換」的発想が骨の髄まで浸透している現場だったからだ。そして、「金を払っているのだから、苦しい思いはしたくない。楽して効率よく実力がつくように教えろ」と要求する「お子様」にどこまでも迎合し(個別指導と家庭教師の「流行」がそれを表している)、「学ぶ主体」を子どもたち自身が苦しんで作り上げる機会を徹底的に奪ってきた塾こそが学力低下の本当の原因だと気付いていたからだ。そして今まさに、パッケージ化された安手の教育プランが学校まで巻き込みながら、全国津々浦々で販売されている。

 消費社会の「等価交換」的発想は人間を「製品」とみなすので、投下した資本はそれに見合う「製品」となってできるだけすみやかに回収されなければならない。消費者マインドは資金の投入から「製品」が交付される時間ができるだけ短いことを要求する。しかし、子どもが成長し知的な大人になるまでには長い時間がかかる。知的な親たちはそれが分かっているので、逆に「子どもたちをどこまで放っておけるか」と考えて、消費者マインドが養育の世界に介入してくるのを抑制できる。つまり、子どもが自分の力で成長するのを待てる。しかし、そうでない親は、等価交換的発想ですべてを割り切り、結果として子どもたちが幼児的全能感を持ったまま、決して成長することのない消費主体でいることを肯定してしまう。だから、「有名私立中学に合格するための知識がすべて詰まっている錠剤」なるものが発売されれば、いくら高価でも購入するだろう。結果を出すのに「時間がかからず」「子どもが苦しまずにすむ」のだから。

 お金を払ったのだから、その対価として数値化された結果(点数が上がることや「必ず」合格すること)をすぐに欲しがるメンタリティーは、子どもたちを決して知的にはしない。受験に特化したいびつでゆがんだ世界に子どもを囲い込み、豊穣な外部世界との交流を遮断すればどんな人間が出来上がるか、ホリエモン氏がビジネスモデルならぬ人間モデルとなって見事に示してくれたではないか。「東大」の「文学部中退」という彼の経歴はあまりにもシンボリックだ。彼は、日の当たらない人間が懸命に生きながら奏でるエレジー(哀歌)に耳を澄ませたりはしない。つまり、文学とは無縁の人間なのだ。

 学びは、知的な世界にいざなってくれる教師や大人と偶然出会い、長い時間をかけて自己を改変していくプロセスそのものである。言い換えれば、自分の持っているモノサシ=価値判断を作り変えていく能力を獲得することを意味する。一度学ぶということの本質を知った人間は、それから後の人生でいくらでも、どんな領域のことでも学ぶことができる。ところが、この「学ぶ主体が形成される場」の価値と、それに要する「時間」は数量的に計測できない。考えてみれば当たり前なことである。成長の過程で、様々な経験や周囲の人間からの影響を取り込んで自らを変えていく能力をどうやって数量化できるだろうか。私は教育の目標はこういった能力をつけることに尽きると思っている。しかし、教育の「入り口」でも「出口」でも、市場原理が深々と入りこんでいて、学ぶことの本質が見失われているのだ。

 以前、藤原新也氏がエッセイの中で、「世界各地を旅して気づいたことだが、先進国の老人は自らの老いに自信を失い、それがあたかも忌まわしいものででもあるかのように劣等意識を持ち、したがって醜く見えることさえあった」と書いていたのを思い出した。続いて「先進国においては、もはやこの古い人間から、より新しい人間に価値体系が伝達されるという関係は崩れ去る。たとえばここでは旧古からの価値体系である宗教が、より新しい側からの価値体系である科学やテクノロジーにとってかわられるように、そして古い製品が新製品に取ってかわられるように、新しい状況や情報のみが価値として君臨する。従って旧世代から新世代へと流れていた知恵や知識の流れはここで閉ざされることになる。老いることは無用の長物となることに他ならない」とある。

 現在の日本の教育システムも経済システムもアメリカをモデルにしている。そしてそのアメリカこそは、歴史上世界で一国だけ旧世界を否定するという前提のもとに立ち現れてきた、きわめて特異な国家であり、同時に過去の歴史を失った国である。したがって、彼らはこれから起こりうる新しい出来事や発明・発見に自らのアイデンティティーをかけるほかないのだ。アメリカと日本では歴史も文化も地政学的な位置も違い、その中で育まれてきた人間の感性も違う。日本がなぜアメリカに追随しなければならないのか。今ある教育システムは絶対的なものではない。私たちの思い込みに支えられているだけである。その思い込みを取り払えばいとも簡単に変えられるものだ。

 それにしても、子どもを育てるのが難しい世の中になったものだ。文明批評的な観点をもたなければ、子どもをまともに教育できなくなったのである。子育ては、自分の子どもが将来お金に困らないようにと考えてするものだろうか。成長した子どもはやがて社会へ出て行く。そのとき私たちの社会が共同体的な価値を喪失し、文化的にも精神的にも疲弊しきった社会であれば、自分の子どもだけ幸せでいることなどできるだろうか。


子どもを幸せにする最も手っ取り早い方法は、親がどういう社会がよりよい社会なのかという価値判断を表明し、行動することである。あれやこれやの受験参考書を買ってきて子どもに与えることではない。つきっきりで子どもの勉強をみてやることでもない。

自分の子どもが勉強ができなくとも、それは親のせいではない。逆に子どもの成績が良くても、それは親の手柄ではない。そんなことをこれ見よがしに自慢するのは、大人としてみっともない恥ずべき行為だろう。子どもが勉強ができるかどうかは、運動能力と同じようにもって生まれた運であると考えた方がよい。そのほうが健康的だ。すべての子どもが勉強ができるようになることなどあり得ない。仮にそうなったとしたら、さぞ活気のないつまらない社会になることだろう。

自分の子どもが勉強に向いているかどうか、冷静で教養のある親ならわかるはずだ。たとえ勉強ができなくても、子どもの社会的な自立を視野に入れて、躾だけはきちっとする。人間の偉さを教える。誇りを持って生きることを教える。他人との協力の仕方を教える。身体の鍛え方を教える。本当の優しさを教える。そして、お金の稼ぎ方と使い方を教える。要するに、勉強以外に子どもに教えることは実に多いのだ。子どもの勉強にかまけているだけの親より、こういうことをしっかり子どもに教えている親の方を、私は尊敬する。子どもとのかけがえのない日々を生き生きと生きるために、親が心しておくべきことではないだろうか。