未来塾通信16


「お受験キッズ誌」の下品さについて

■私は決して上品な人間ではない。ただ、人間として上品でありたいと常に願っている。ここで言う「上品さ」とは、「その時々の身勝手な欲望に翻弄されて、自分あるいは自分の家族さえよければいいという考えに傾くことを抑制する、社会性を持った人間のストイックな精神」だと定義したい。あるいは、「文明とは躾(しつけ)の総体である」といった司馬遼太郎のことばを借りて「みずからを躾ける意欲であり、自律の心を持つことであり、恥を知り、責任を自覚し、自分であることの誇りを失わないこと」だと言いたい。

  ところが、現在のマスコミや出版業界は上品さの対極にある。多少なりとも羞恥心のある編集者なら絶対にためらったであろう、恥も外聞もない露骨なタイトルの雑誌が次々に発行され、店頭に並んでいる。特にここ数年、各経済紙誌がビジネスマンの父親やその家族をターゲットとした、いわゆる「お受験キッズ誌」を相次いで発刊し、潜在的な需要を掘り起こそうとやっきになっている。


たとえば、ビジネス雑誌『プレジデント』の別冊として発行された『プレジデントFamily』(現在は月刊誌となっている)や日経ホーム出版社(日本経済新聞社の関連会社)の『日経Kids+』をはじめとして、『週刊ダイヤモンド』『週刊東洋経済』『週刊エコノミスト』などといった経済誌も中学受験特集を組んでいる。ちなみに『プレジデントFamily』の表紙にはエリートビジネスマンらしい中年の父親とその妻、私立校ファッションの娘、私立中学の制服を着た息子、そして小学生の娘の五人がきれいな芝生の上に、にこやかに並んでいる。これからの時代の理想的な家族であるかのように。その家族写真を取り巻いてキャッチコピーが踊る。以下、カッコ内は私のチャチャである。

「頭のいい子の親の顔」

(ついでに、「頭の悪い子の親の顔」も載せてはどうでしょう?こんなタイトルをつける「編集者の親の顔」が見たい!)

「超難関校に受かった一家の手帳を公開!」

(今どき手帳!一家で手帳をつけるなんて、気持ち悪い。誰がそんな手帳を見たがるだろうか。編集者が見たいから、皆が見たいだろうって?編集者ののぞき趣味を押し付けないで欲しい。)

「偏差値50台でも東大、京大に入れるぞ!全国500校掲載 特選!夢を広げる学校選び」

(無理です。東大も京大もれっきとした定員というものがあります。皆が成績が上がって、皆が東大にいけるなんて、バカな夢に庶民を巻き込まないでいただきたい。なんのことはない、雑誌の売り上げを伸ばすためには可能性のない層も巻き込む戦略が必要だというわけである。)

「『息子と娘のタイプ別』中高一貫校のいい学校、悪い学校」

(中高一貫校でも「悪い学校」がある!私の住んでいる大分では、中高一貫校というだけで「いい学校」と思い込んでいる人が多いですからね。残念ながら、大分には人に勧められるような中高一貫校はありません。今までどおり、普通の公立中学から、上野丘・舞鶴に進学して大学を目指すコースのほうがよほど安心です。勉強だけではなく、高校時代の3年間をどんな環境で過ごすのか、経営のために進学実績をあげようとやっきになっているような学校で将来の可能性が広がるかどうかを考えたほうがよい。焦ってカリキュラムを先取り学習しているだけの大分の中高一貫校の内実はかなりお寒いのが現実です。


私の経験では、先取り学習によってつけた差は、18歳の大学受験の時点までにほとんど解消されます。早期教育は無意味であるとの信頼できる研究データもあります。早期教育と正しい勉強方法によって、すべての子どもの学力が上がるというのは幻想です。高校3年生ともなれば、学力差は歴然としています。そしてこの差は学校や塾によってついたものではなく、大部分は生得的なものです。このことを直視することから学校選択・職業選択を考えるべきです。そうしなければ、子どもたちが持っている、芸術をはじめとする多方面の可能性を潰すだけではなく、人間としての尊厳や誇りをも潰すことになります。塾にできることは、このことに十分配慮しながら、いわゆる勉強面での生得的な能力を伸ばすことくらいです。それは、学校で十分とは言わないまでも、かなりな程度行なわれているのですから、生徒が合格したからといって、あたかもそれがすべて塾のせいであるかのように吹聴するのは、あまりに品のない行為ではないでしょうか。)

「徹底調査!東大生100人の小中学校時代 勉強時間は?部活は?父の職業、学歴、年収は?家庭の人間関係は?」

(これを読んで、受験に有利だという理由で、野球をしたがっている子どもを美術部に入れる親がいるんだろうか?言葉は悪いが、こんなバカ雑誌を読んで子どもの部活を決めるような親は、この雑誌の編集者くらいだろう。いったい個人のプライバシーにどこまで首を突っ込めば気が済むのだろうか。編集者の「家庭の人間関係」はどうなっているのか?一流?出版社の知性も落ちるところまで落ちたということである。そもそも、「一流」だとか「有名」などというレッテルを信じていては、独自の価値観を手に入れることもできないし、充実した人生を送ることもできない。そして完全に時代に取り残されることは明白である。)

「あなたの子供も大丈夫!きっと輝く!!」

(他人の子どものことはほっといてくれ。いったいどういう目線でこんなタイトルをつけるのであろうか。公立であろうが私立であろうが、親が自分勝手な夢を押し付けたり、子どもの人格を否定するような干渉さえしなければ、子どもはみんな輝いている。)

  私は、こういったキャッチコピーを書く編集者の感覚を疑う。というか、あきれる。一冊でも多く売るためには、大衆の好奇心と俗物性を刺激するしかないという編集方針が透けて見えるからだ。そういえば、『隣の子どもはどうやって東大に行ったのか』『東大生の親に聞いた「頭のいい子」「集中力のある子」の育て方』果ては、『東大脳の作り方』『頭のよい子が育つ家』(大都市圏の有名私立中学に合格した子どもの家2、000軒分の見取り図をデータ化したというから恐れ入る)という書名の本まである。

こういった雑誌や本を出版する編集者の頭の中では、「頭のよい子」イコール「有名私立中学校に合格した子」という等式がなんの疑いもなく出来上がっているのだろう。そして、こういった価値基準をなんのためらいもなく社会に垂れ流しているのだ。ひょっとすると、彼らの多くはいわゆる「有名私立中学出身者」なのかもしれない。

彼らは職場でいったいどんな人間関係を築いているのだろうか。だらしのない下品な言葉は、だらしのない下品な人間関係からしか生まれない。売れるか売れないかが唯一の尺度となっている職場にちがいない。余りにみっともないのではないかと異議を唱える編集者がいようものなら、きっと負け犬根性の持ち主として排除されるのだろう。こうして大都市圏を中心とする中学受験ブームが地方の公教育の現場にまで押し寄せ、「市場」「選択」「集中」「競争」「二極化」「顧客満足度」といった経済の言葉が幅を利かせて、教育の目的を「学力向上」一色に染め上げようとしている。

  ここ大分でも、『大分の学校と塾がわかる本』という雑誌が発行され、最新号の表紙には、カワイイ女の子の写真の横に「知らなかったではもう済まされない!!学校改革で変わるわが子の将来」「中学受験はもはや当たり前!?大分市内で変わる保護者の意識」「大学受験は戦略で決まる!?お父さんのためのセンター入試基礎講座」(やれやれ、ここでもお父さんがターゲットにされている)「もう一度イチから教えます!?ウチの子にピッタリの塾選び基礎講座」「教育環境で選ぶ大分の住宅・マンション最新情報」「友だちや家族と行きたい春の合格旅行セレクション」(居住地や旅行の行き先まで教えてくれるとはありがたい雑誌である。何のことはない、業者のヒモつきである)等々のやたらと!?マークだらけのキャッチコピーが踊る。そして極めつけは「受験生家族に捧げるサクセス・プロファイル。難関校に合格した大分の子どもたち」と題して、子どもたち数人の顔写真を大きく掲載している。

この子どもたちはどんな基準で選ばれたのだろう。家族の承諾は取っているのか。私なら自分の子どもがこの種の雑誌に顔写真入りで大きく取り上げられると知ったら、「ふざけるな、お前は何様になったつもりだ!たかが中学や高校に合格したくらいで人生の勝利者にでもなったつもりか。お前をそんな恥知らずな人間に育てた覚えはない。すぐに断ってこい!」と間違いなく言う。

  私の塾にもこの会社から広告の掲載を勧誘するダイレクトメールが届くが、下品この上ない集団に入ろうとは決して思わない。現に、「驚異的な進学実績」「大分のニュースタンダード」として、この雑誌が大々的に取り上げ宣伝したある塾は、2年後には消滅している。この雑誌のいいかげんな取材と編集方針?はこの事実によっても明らかである。私の知っている信頼するに足る塾は、この雑誌に広告を出していない。やはり独自の判断をしているのだ。そもそも、自塾の宣伝・広告を他人任せにすることなど、私には考えられない。

 戦後60年経って、これほど露骨に「わが子だけいい学校に」「いい成績に」と奔走する時代がやってこようとは・・・・。教育の目的は、わが子をどういう人間に育てるかよりも、将来労働力としてどれだけ高く売れるか、つまりどれだけお金を稼げる人間に育てるかに、収束してしまった感がある。

  今から11年前、72歳で生涯を閉じた作家の司馬遼太郎は、当時の日本社会を評して「人間には自傷症という病気があって、ひどい症状の場合には唇を全部食べてしまうそうですが、社会が自傷症にかかっているという感じですね。日本人はみっともなくなりました。もうだいたいこれで終わりなんでしょう」という言葉を残している。

これから先の学校は、『未来塾通信6:学力低下は塾のせい−part2』で詳しく論じたように、教師と生徒が「消費者」として対等に向き合い、「選択」と「集中」がさらに加速され、徹底的に市場化されていくのだろう。高校は「○○大学に何人合格させました」という実績だけがセールスポイントとなり、市場価値によるドライな評価が大手を振ってまかり通るようになりつつある。一方で、部活や様々な行事を通して人間的に成長した教師や友達との思い出は、経済的な価値に結びつかないので、誰からも評価されなくなるのだろうか。

  今日、中学3年生の塾の授業が始まる前、生徒達が卒業アルバムをお互いに交換して、裏表紙に寄せ書きをしていた。私の塾がある地域、大分市立坂ノ市中学校の卒業アルバムだ。私はそれを借りてページを一枚一枚めくっていった。田園風景の広がる田舎の中学校の、人のよさそうな生徒達の笑顔がまぶしい。雨の中での廃品回収や遠足、修学旅行、体育祭や部活のスナップ写真が中学校生活3年間の思い出を語っている。この学年の生徒達は、共同体的な、お互いを思いやる気持ちを持った本当に素直でいい子どもたちだった。学力も抜群だった。中学校生活を通して、人間としても成長したに違いない。先生方の指導もきっとよかったのだと思う。「学力向上」の大合唱の喧騒をよそに、黙々と生徒の人間的な成長を願って働く教師達がいる限り、そして、そういった教師の姿を評価する親や生徒がいる限り、まだまだこの地域は捨てたものではないと思った。