未来塾通信12


稀有な教師と生徒 ー 内藤廣と吉阪隆正 ー

■ 塾の卒業生で今は東京の図書印刷株式会社に勤めているN君から、本をプレゼントしてもらいました。私が建築に興味があることを覚えていてくれたのです。書名は『吉阪隆正の迷宮』。内藤廣氏は私の尊敬する数少ない建築家で、彼が早稲田大学で学んでいた時の先生が故人の吉阪隆正なのです。この本の中で内藤氏が「あの人に会わなければ、もっと楽な人生が過ごせたと、今まで百回くらい思った」という題で師を偲んでいます。この師がいて、この弟子あり、いや、この弟子がいてこそ、この師ありなのでしょう。東大仏文の学生だったときの小林秀雄と恩師の辰野隆との師弟関係は、若かった私に忘れがたい印象を残しました。内藤氏の談話を読んでそのころのことを思い出したのです。塾で若い人たちを教えるようになったのも、そのころの影響が尾を引いているのかもしれません。以下、内藤氏の談話をそのまま引用します。

 先生の言葉で一番しんどかったのは「迷ったときは良心の声を聞け」という、その一言ですね。ああいう言葉を残して死なれると困る。弟子としては修正がきかないですからね。亡くなっちゃてるわけでしょう。そうすると勝手に修正するわけにいかないので、自分で判断しなければいけないんですよね。世の中、そんなにきれいなことばっかりでは生きていけない。グレーゾーンがあるわけですね。グレーゾーンのときにはつらいですよね。良心の声とは別方向で生きてきた部分もないわけではないので、その辺は師匠がいないので苦しかったですね。 

 「思ってもみないことを書くな」と言われたこともあります。後は学生時代、ものすごく文章を書くのが早かったんですよ。仲間うちでいろいろ文章を書いたり建築の批評をやっていて、そこでかなりとんがったことを書いていたんですよ。何かの折りに吉阪さんにそれを見せたか見られたかして、「思ってもみないことを書くな!」と一喝された。それを言われた瞬間に、全然書けなくなってしまった。吉阪さんでなければ、別にそんなことはないと思うんですけどね。要するに心の内を見透かされたような感じがあったんですね。自分が書いていることは、本当に自分が考えていることなんだろうか、ということを真剣に考え始めちゃったわけです。 

 大学院の一年のときに、『新建築』誌の月評を書くことになるんですが、そのときにはこういうふうに言われましたね。「出る釘は打たれるから出てみたら」と。出なければ世の中のことが分からないから出てみろ、この際、出てみて打たれてみろということなんでしょうね。その次に、「自分で本当に考えていることを書きなさい。もし君が今本当に思ったことを書くのなら、叩かれても構わないじゃないか。本当に思ったことを書いたなら、それはけっして君にとって無駄にならない」というふうに言われました。

 その言葉を信じて思ったように書きました。若者の稚拙な頭で。ところがひどい目に遭いました。たぶん、十年以上干されたんじゃないかな。それでよかったと思いますよ。でも今となっては笑って言えるけど、なかなかきつかった。 

 書くことで、自分の立場とか自分の軸足を知らない間に決めたわけですね。自分がそこの場所を動けなくなった。本当に思っていることを書くということは、そう軽いものじゃないんですよ。思ってもいないようなことを書いている分には、いくらでも意見を変えられるけどね。本当に思ったことを書くとそうは変えられない。どういうわけか、それは世の中とずれるんです。そのずれる度合いが僕の場合は大きかったと思う。だから後になって、大変だった。修正がきかない。さりとて、安易に別の考えをとるわけにもいかなかった。 

 今から考えると、吉阪隆正がひょっとしたらすごいかなと思うのは、そういうことまで分かっていたのかもしれないということです。こいつはこれをやることでしばらくあかんだろうなと。そこの部分に耐えられればそれでよし、耐えられなくてもそれでよしと。でも耐えられなかったら、僕は建築家としても人間としても瓦解していたでしょうね。とてつもなく厳しい指導ですね。とりあえず、そのとき直感的におかしいと思ったことをあまり修正しないで、今に至っているというのは、運がよかったということなんでしょうね。もうひとつは、要領が悪くてそうそうフレキシブルには変えられなかったからかもしれない。頭のいい人は時代に合わせて自分の考えを変えていくけれども、僕の場合は吉阪さんという先生をもったがために、そうはいかなくなっちゃったということですね。吉阪さんはひょっとしたらそういうことも全部分かったうえで、僕にそういう言葉を吐いたのかもしれない、と今にして思います。 

 だからあの人に会わなければよかったと思いますよ、本当に。そういうのは今まで百回ぐらい思った。あの人に会わなければ、もっと楽な人生を過ごせたよな。それは今でも思うことがある。それは彼が本当の意味で教育者だったということなんでしょうね。 

 スペインの事務所で二年ほど働いた後、シルクロードを半年以上旅して、帰ってきました。半年あまり経って吉阪さんから電話がかかってきたので、大学に出かけて行きました。最初は、研究室に戻ってこないかということでした。僕はそのとき「先生みたいに忙しい人の研究室に戻ったって面白くない。二十代の一年一年は惜しいからそういう使い方はしたくない。もし先生が事務所をつくるつもりなら僕の十年をあげます」と言ったんです。 

 そうすると先生は黙って目をつぶってしばらく考えて、「それはできない」と言ったんですね。「そしたら僕は僕の道を行きます」と。「じゃあ、君はこれからどうするつもりなんだ」と聞き返されました。スペインでは実務もやったけど、プロジェクトが中心だったので、日本の社会の中でちゃんと建築をやっていくためには実務を勉強する必要がある、という話をしたんです。そうしたら、「君が一番向いていないと思う事務所はどこかね」というんですよ。変なことを聞く人だなあと思った。

 学生時代、自主企画で講演会を組織していたことがあって、そのとき菊竹さんのところにお願いに上がったことがあって、ちゃんとした会社みたいだったので、「菊竹さんのところはたぶん僕に向いていないと思います」と言ったんです。そうしたら、やにわに電話をつかんで、「スペインから戻った変なやつがいるから、君のところで少し預かってくれないか」って。冷静に考える暇もなく勤めることになった。吉阪さんが半ば強制的に菊竹事務所に叩き込んだということだと思うんです。 

 それも今となってはありがたいことだと思ってます。それまで僕の中になかったものを、非常にたくさん菊竹さんのところからもらいましたから。自分にない設計の仕方だとか、考え方だとか、プロジェクトの進め方だとか。菊竹さんというのは天才的な人で、そういう引き出しをたくさん持っていて、違和感を感じると同時に、ものすごく得るものが多かった。この辺は吉阪隆正の教育者としてのすごさなんでしょうね。