未来塾通信10


拝啓 養老 孟司 先生 ー 思想の大空位時代 ー

■ 去年のことですが、NHKのテレビ番組に先生が出演しているのを拝見しました。その時、ある女子大生の率直な問題提起に対し、先生は「原理主義のにおいがする」と言っただけで彼女とのやりとりを終えてしまいました。彼女は「議論の前提として、まず言葉の定義をはっきりさせなければならないのではないでしょうか」と至極まともな問いかけをしていたのです。先生は『バカの壁』で、「若い人をまともに教育するなら、まず人のことがわかるようになりなさいと、当たり前のことから教えていくべきだということです。それが学問の本質に関わるからです。」と書かれています。先生をクローズアップする番組の中で、質問するように言われた女子大生は、先生の著書を読んで疑問に思ったことを素朴に尋ねたのだと思います。先生にとってその時の彼女は、原理主義的発想に凝り固まった若者の代表選手、つまり否定されるべき単なる記号としか映っていなかったのではありませんか。彼女という「人のことがわか」っていたのでしょうか。人間は言葉を使って自分の考えを伝達しようとします。しかし、使っている言葉の定義が違えば相手の思想を理解することは不可能です。頭脳明晰な先生のことです。実は自分の言っていることが相手に伝わらないのは、言葉の定義が曖昧だからだと薄々気づいていたのではないでしょうか。それを指摘されたので、原理主義の「におい」がするという一言で、彼女にしてみれば何のことか分からないレッテルを貼って話を打ち切らざるを得なかった。これは「学問の本質に関わる」ことではないでしょうか。およそ一流の学者であれば、若い人からの真摯な問いかけに、「におい」がするからというような理由で議論を打ち切ったりするでしょうか。まるで骨董を見て「贋物のにおいがする」からと言って相手にしないのと同じです。私も女子大生と同じ疑問を感じていたので、先生の『バカの壁』に再度挑戦してみました。再度と言うのは、一度読みかけて途中で放棄していたからです。ところどころ至極まっとうなことが書かれているのですが、肝心なところになると先生の使っている言葉の定義が曖昧で、意味不明の箇所が実に多いのです。今回我慢して最後まで読んでみました。それにしても実に疲れる読書でした。以下、私が気になった箇所を端的に述べてみます。

(1)先生の使っている「原理主義」という言葉について。

「バカの壁というのは、ある種、一元論に起因すると言う面があるわけです。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすらわかっていなかったりする。」(p194)こういった状態を指して先生は「原理主義」という言葉を使っています。私に言わせればこれは単なる自己チュー人間のことを言っているに過ぎない。わざわざ原理主義などという言葉を使う必要はないのです。普通、「原理」という言葉は、自分たちの欲望や意識の根底にある無意識的・民族的な世界観や美意識を指します。表面的な現象にとらわれずに物事を深く考えようとすれば、原理的にならざるを得ないのです。例えば、ここにまったく異なった建築物があるとします。一つはある外国の建築家の手法を表面的に真似ただけのもので、もう一方は海外の建築から決定的な影響を受けているものの、日本文化の基底部をくぐることによって余計なものが削ぎ落とされたシンプルな建築だとします。この二つの建築物の優劣を判断するときに、私たちは「原理的」に考えるといいます。つまり、それぞれの建築物の表面的な違いに着目するのではなく、その建築を生み出した建築家の発想の根源にあるものを考えざるをえないということです。一方、原理「主義」というのは、経典に書かれている自分たちの文明や宗教の根本原理を、あらゆる場面において、剥き出しのかたちでストレートに現実に適用し、柔軟性、伸縮性、適応性に欠け、結果としてひどい害悪を流すことを言うのでしょう。ところが先生は、自分の壁の内部にあるものが「原理」だ、それにこだわることが「原理主義」だ、従って「原理主義」はいけないと単純にくくってしまっている。しかし、そもそも原理的に考えることを否定して、自分の感覚や認識をどうやって秩序化できるのでしょう。

(2)『バカの壁』最終章。「一元論を超えて」p204より。「安易に『わかる』『話せばわかる』『絶対の真実がある』などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、自分と違う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。」この箇所はこの本の最後のまとめです。この本の水準を示す箇所です。「安易に『話せばわかる』などと思ってしまう姿勢、そこから一元論に落ちていくのはすぐです」というのであれば、話してもわかるわけがないと決め込んでしまえば、「強固な壁の中に住」まずに済み、一元論に落ちなくて済むのでしょうか。ほとんどの大人は「話せばわかる」などと安易に考えてはいません。いくら話してもわかってもらえない相手と日々向き合いながら、それでも話す以外に方法がないと覚悟を決めているのです。要するに、先生は自分の壁の中が第一元で、壁の向こうが第二元ということで、その両方に言い分があることを認めましょうと言っているに過ぎない。「善」と「悪」の対立といった単純な二元論を想定しているのです。そういったレベルで相手の言い分を認めるのが二元論だと言われても困ります。相手の言い分や批判を認めるということは、その中に一定の合理性や道理を発見し、それを自らの中に繰り込んで自分を変える契機にしていくことです。言い換えれば、単純な相対主義・二元論を超えて普遍的なものを探る努力をしなければならないということです。なぜなら、そういった思想的な営みを放棄すれば、感じることも考えることも、そして生きることも意味がなくなってしまうからです。

(3)「変わらないものは情報で、変わるのは人間である」これは先生がもっとも言いたかったことだと思われます。なぜならあちこちで繰り返し言及されているからです。しかし、この言い方が又わからない。「変わるのは人間である」というときの「人間」とは何を意味しているのでしょうか。解剖学者だからといって、たんぱく質と脂肪とカルシウムの塊である物理的な存在としての人間を意味しているのではないでしょう。社会的な存在としての人間を論じているのですから。そうだとすると、人間の脳には様々な情報が入ってきて、蓄積され、他者に伝達されていく。そこで何が蓄積され伝達されているのかと言えば、情報の持っている意味です。意味が蓄積され、表現され、伝達される。そうであれば、人間は情報すなわち意味の集合体そのものだと考えるのが普通の理解ではないでしょうか。先生は人間と情報を何を基準にして区別しているのでしょうか。また違う箇所では、「約束、言葉が軽くなった理由は、同じ人なんだから、言うことは変わるはずがないだろうという前提がいつの間にかできてしまったところにある」と書かれています。しかし現実はむしろまったく逆です。同じ人なのに言うことがコロコロ変わるからこそ、言葉が軽くなったのです。政治家や大新聞、マスコミに登場するコメンテーターやエコノミストを思い浮かべれば納得されるのではないでしょうか。先生の言う「前提」はどこで、いつ出来上がったのでしょうか。「いつの間にか」先生の頭の中だけで出来上がったのではありませんか。

(4)『バカの壁』p76。ソシュールの言語学について

「ソシュールによると『言葉が意味しているもの』(シニフィアン)と『言葉によって意味されるもの』(シニフィエ)というふうにそれぞれ説明されています。この表現はわかったようなわからないような物言いです。実際ソシュールは難解です。が、これまでの説明の流れで言えば、『意味しているもの』は頭の中のリンゴで、『意味されるもの』は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい」と先生は書かれています。この部分は先生の全くの誤解です。以前作家の筒井康隆氏も同じ誤解をしていました。現代の言語学では、言葉の意味は実際のモノではない。その言葉が喚起するイメージのことだと考えているのです。だから、「犬」という言葉を聞いても、人によって異なったイメージを抱くことができるのです。例えば、ある人は秋田犬を、ある人は柴犬をイメージするといったように。さらに言えば、言葉の意味がイメージに過ぎないからこそ、空想上の生き物や、「愛」や「平和」といった抽象的な概念を言葉で表すことができるのです。ソシュールの言うシニフィアンとは表現=文字や音声を指し、シニフィエとは意味=頭の中にできるイメージの束を指しています。「『意味しているもの』は頭の中のリンゴで、『意味されるもの』は本当に机の上にあるリンゴ」などではありません。平和という言葉を考えれば、「意味されるもの」は「本当にある平和」などという言い方がトンチンカンなのは言うまでもありません。

私は小学生だったころ昆虫採集に夢中になり、一日に数百匹のセミやカナブン・クワガタ・カブトムシを採って母親を卒倒させかけたことがあります。桜の木に玉虫を見つけてその美しさに陶然となったり、悠然と低空飛行を続けるオニヤンマをなんとかして採ろうと必死になっていました。またある時は、草むらに逃げ込もうとした青大将やからすヘビの尻尾をつかんで振り回し、女の子に投げつけて怖がらせたり、アリの行列を虫眼鏡で焼いたこともあります。お寺の巨木の上にいたフクロウに石を投げて落ちてきたところを捕まえてペットとして飼っていたこともあります。思い出せばきりがありません。要するに「バカなガキ」だったのです。ですから、いまでも昆虫採集に夢中になっている先生を拝見すると自分と同じ種類の人間だなあと思うのです。実際に会って話をすると意気投合しそうな感じもします。それに先生は人間が下品ではない。しかし、根本のところで私の考えは先生とは違っています。私は単純な二元論や相対主義を超える思想に興味があるのです。そもそも思想とはそういうもののはずだったのではないでしょうか。それを生み出そうとする必死の努力が見えない。私が『未来塾通信6』で、「六本木ヒルズに生息する実験動物」と表現した下品な若者が逮捕されましたが、それを応援した政治家や学者の醜態ぶりは目を覆うばかりでした。これほど政治の貧困を浮き彫りにした噴飯ものの茶番劇はめったに見られるものではありません。それで改めて確認したことは、本物の思想は知識人や学者と呼ばれる人間の中からは絶対に出てこないという事実でした。それにしても、現代の日本は思想の大空位時代です。そんな時代に、ただ自意識と自尊心だけを肥大化させ、その結果コミュニケーション能力を欠いた人間が、自分が理解されないのは周囲のバカのせいではないかと考えて『バカの壁』を買っているのだと言えば失礼でしょうか。今年の2月7日の朝日新聞のインタビューに答えて先生は次のように言っています。「当たり前のことを言った本が売れるということは世の中が当たり前でない、ヘンだ、ということなのでしょう。私には人々が物事をほとんど考えていないように見えるんですよ」と。その通りだと思います。だからこそ身も蓋も無いタイトルの本が売れるのです。