未来塾通信 9


そんな少年よ ー 2006年・元日に ー

小学校6年生の頃、一つ年下のタカオとメジロを捕るのに夢中だった。モチの木の皮をナイフで剥ぎ、石でたたいて潰し、硬い表皮を取り除いてペースト状になるまでこねる。できたトリモチを口に入れて粘りが出るまで噛み続ける。灰色のガムのようなトリモチを口から出して、細い枝を回転させて先端からムラなくつけていく。不器用なタカオはうまくできず、腹を立てて「くそっ!くそっ!」と怒鳴った。私はタカオの分まで作ってやって、おとりのメジロと一緒に木の上に仕掛けた。午後のどんよりとした陽光が木々の間から洩れてきて、まるで水中にいるような気分だった。1時間ほど経ったころ、「オレ帰る!」と言い残して、タカオは山を駆け下りていった。誰もいない山の中で、たったひとりでメジロを捕るのは、少年にはあまりに寂しすぎる経験ではないか。それでも私は仕掛のある木の上を首が痛くなるまで見続けていた。期待で頬を赤く染め、まばたきもせずに樹上を見ていたとき、私が感じていたのは夕方近くになって音もなく忍び寄ってくる空気の冷たさではなく、実存としての人間の孤独感だったように思う。あの頃の私のように、寒さと孤独に身を縮め、ひたすらメジロがやってくるのを待っている少年は今もいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、新年明けましておめでとう。


中学3年の元旦。年賀状が家のポストに落ちる音がした。私は一目散に駆けて行って中からハガキの束を取り出した。父に来た賀状の多さにうんざりしながら、一枚ずつ見て行った。私宛の年賀状は3枚だけだった。しかし、その中に私が最も待ち望んでいたハガキがあった。その一枚で私は救われたのだ。筆跡を何度も見つめ、この年賀状を書いていたときは少なくとも自分のことを思っていてくれたはずだと考えた。私はそのハガキを本の間に挟んで大切にとっておいた。不安と期待で胸をいっぱいにして、たった一枚の年賀状を待ち続けている少年は今もいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。


親のささいな言葉に傷つき、憎悪が黒い潮のように心を満たした。何でこんな親の子どもに生まれてきたのだろうと呪詛の言葉を投げつけた。ガラス細工のようにもろいプライドと肥大した自意識で頭をいっぱいにし、将来に対する不安と正面から対峙することを避けていた。「人間は何のために生きているのか」という永遠に答えの見つかりそうもない問いの周りをただぐるぐる回っていた。「どんな生き方をしようと、親父とは関係ないだろ!」と吐いて捨てるように言った時、父は腹の底から搾り出すように「関係ないだと!」と言ったきり、こぶしを握り締めて震えていた。私は19歳だった。「こんなにお前のことを心配し、愛していても関係ないと言うのか!」というのが父の言いたかったことなのだと、自分が親になってみて骨身にしみて分かる。親を心の底から愛しているのに、いや、愛しているがゆえに呪詛の言葉を投げかけてしまい、取り返しのつかない思いで涙している少年は今もいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。