未来塾通信 7


ある教師から学んだ「公平さ」について

■教師にとって一番必要なものは何かと聞かれれば、まず第一に、教える教科・分野において経験と実力があることだと私は答えます。実力のなさを、生徒に対する思いやりや愛情で補えると考えるのは職業人として甘すぎると思います。

たとえば、患者に対してどんなに思いやりを持っていても、経験の浅い、要求される水準の技術を持っていない医師に、命を託すことはできません。スポーツの指導者を例にとっても、このことは歴然としています。しかし、今回私が問題にしたいのは職業人としての教師の実力や技術ではなく、人間としての資質に関するものです。

 あれは上野ヶ丘中学の3年生の時でした。私は陸上部に所属していて、短距離とハードルの選手でした。特にハードルでは大分市内にはライバルはなく、全県でも1・2位という結果を残していました。県体予選を1位で通過し、大分市の代表として県体に出場の予定でした。

試合の2〜3日前、大分市の代表選手(正選手と補欠)が全員市営陸上競技場に招集されました。試合当日の確認と簡単な練習ということでした。その日は朝から暑い日差しがじりじり照りつけ、地面からは陽炎が立ち昇っていました。友達に誘われて私は昼過ぎから、市営プールに行き、集合時間の午後4時まで目いっぱい泳ぎ、疲れてへとへとになって陸上競技場に向かいました。私と同じように直前まで泳ぎ、真っ黒に日焼けして自転車で駆けつけた仲間もいました。何といっても、夏休みの最中だったのですから。

点呼と簡単な注意が終わった後、総監督をしていた碩田中学の陸上部の顧問の教師が妙なことを言いました。「試合には、調子のいい者を出場させる。今から言う競技の正選手と補欠を競争させて、勝った者を出場させる」というのです。そんなことはまったく聞いていなかったので、私は何の用意もしていません。軽い練習だけだというのでスパイクを持ってきている選手もほとんどいません。選手の間で驚きの声が上がりました。

「ハードルの選手は集合。ほかの選手は、軽く練習するように。」とその教師は宣言しました。「ハードルの選手って、俺と補欠の小林の二人だけだろう。何が言いたいんだろう」と私は思いました。ところが「今からお前達二人を競争させて、調子を見極める」と言うではありませんか。いくら鈍い私でも、ことの真相に気づかないわけはありません。補欠の小林は碩田中学の陸上部です。大会のたびに、彼とこの顧問の教師を良く見かけました。実際に教師がハードルを跳んで見せて、あれこれと彼にアドバイスしていました。しかし、予選、決勝を通じて私は彼に負けたことは一度もありませんでした。

集合したその日、顧問の教師は、私が泳ぎ疲れてへとへとになっているのに気づいたのでしょう。ここで勝負させて何とか自分の愛弟子を出場させようと目論んだのです。

「お前、スパイク持ってるか」と、きかれました。「いいえ。こんなことは聞いていなかったので、持って来ていません」と答えました。「じゃ、誰かに借りるか、取りに帰れ」というではありませんか。「先生、僕は自分のスパイクでなければ走れません。それに僕の家は上野丘です。片道でも自転車で30分はかかります。」と返答すると、「待ってるからとにかくスパイクを取りに帰って来い」と言ったきり、小林の方に歩いて行って、何かコソコソ話しかけていました。

私は何とウブで素直な少年だったのでしょう。悔しさと怒りを感じながらも、上野の自宅まで自転車を飛ばしてスパイクを取りに帰りました。「今からまた練習なの?」という母親の問いかけには応えず、自転車に飛び乗って上野の坂を一気に下りました。

陸上競技場に着くと、トラックにはハードルが二列きれいに並んでいました。小林は充分なアップを終えて、やる気満々です。私にはもうほとんど体力は残っていませんでした。他の選手達が見守る中、小林と私はスタートラインにつきました。額から大粒の汗がレンガ色のアンツーカーの上に落ちました。一瞬の脱力感。「ヨーイ」という顧問の声が遠くで聞こえ、スタートのピストルの音が響きました。

私は悔しさで体をいっぱいにして走りました。隣に小林の姿は見えません。後れている!しかし、最後のハードルを越えようとした時、体力を消耗し尽くした私は失速して、追いついてきた碩田中学陸上部顧問の愛弟子に抜かれたのです。ゴールした後、愛弟子は私にはじめて勝ったことで、誇らしげな顔をしていました。私はと言えば、あまりの茶番劇に怒りを通り越して、ある種の開放感を感じていたのです。

ここまでインチキをして勝ってうれしいのだろうか。こういう連中と過ごすのはこれが最後だと強く決心しました。結局、正選手と補欠を競わせたのは、ハードル競技だけだったのです。最後に全員を集めて、碩田中学陸上部顧問氏は、正選手と補欠選手を発表しました。ハードルだけ正選手と補欠選手の名前が入れ替わっていました。

「先生、あなたが今日したことは教師として人間として最も恥ずべきことではありませんか。自分の指導している選手を何とか出場させようとして、あなたは詐欺まがいのことを、大勢の子ども達が見ている前で、堂々と行ったのです。調子のいい者を出場させると言うのなら、なぜハードル競技だけ正選手と補欠を競争させて、他の競技はさせなかったのですか。子どもだから騙せるとでも思ったのですか。あなたのような教師がスポーツの指導者であることに、言いようのない怒りを覚えます。しかし、僕はこの程度のことで傷ついたりしません。大人は皆汚いとか、教師は誰も信用できないなどと馬鹿げた一般化もしません。今日のことを誰かに訴えることもしません。しかし、あなたが今日したことを、僕はあなたの名前とともに記憶して生涯決して忘れないでしょう。あなたは僕に「公平さ」ということを心に刻み込んでくれた教師です。それにしても小林!お前、こんなインチキをしてまで試合に出たいのか!『先生、僕にもプライドがあります。こんな出場の仕方は絶対にイヤです!』くらいのことが言えないのか!ふざけた野郎だなお前は!」とでも、あのとき言えばよかったのですが、なにせ言葉を持っていない中学生です。

私は何も言えず、ぼーっとした頭で自転車をこいで家路に着きました。県体当日、私は競技場には行きませんでした。補欠がいやだったのではなく、心底いやけがさしていたからです。小林は予選で敗退して、決勝に残れなかったと部活の友達に聞きました。行われた不正の意味とそれが自分にもたらした人格的な影響を自覚したのは数年を経てからでした。教師の語る道徳から私は何一つ学びませんでしたが、教師が発した無意識の言葉や、実際にやったことからは「道徳」を充分学びました。その後、小林とは上野丘高校の図書館ですれ違ったときに「よお」と声を交わしたきりです。彼もまた言葉を持たないウブな中学生だったのです。