未来塾通信 6


学力低下は塾のせい PART2 ー 今、賢い親は何をすべきか ー

■最近体験した、ある象徴的な出来事から始めます。中学生の授業が始まって30分ほどしたころ、教室の後ろのドアをノックする音がします。部活で遅れて来た生徒かなと思う間もなく、面識のないお母さんが教室に入ってきました。授業中なので教室の外に出てもらい、そこで用件を聞きました。


授業を中断したままなのでじっくり相手をすることはできません。あらかじめ電話をいただいていれば、授業のない時間帯に話を聞くこともできるのですが、何の連絡もなく突然の来訪です。


「ごらんのように今授業中ですので、用件を手短にお願いできますか?」と申し上げたところ、一緒に連れてきていた男の子を指して「この子を入塾させたいので、授業を見学したい。無料体験学習は何回までできるのか」ということでした。礼儀知らずの親だなあと内心思いながら、授業が気になっているので、「そういう用件でしたら、改めてお電話いただけますか。後日詳しい話ができると思いますので。今は授業中なので詳しい説明はできかねます」と返事をしました。


すると、そのお母さんの顔色が変わり、そんな接客態度はないだろう、それなら入塾してやらない、さあ帰るよ!と、一言もしゃべらなかった男の子をせかすようにして帰ってしまいました。この間5分。一瞬あっけにとられましたが、私はすぐ教室にもどり授業を再開しました。


私の塾は無料体験学習を大々的に宣伝するような塾ではありません。授業の見学はできますが、通常の授業内容を見学の生徒に合わせて変更するようなことはしていません。その日がたまたまテストの日であれば、見学の生徒にもテストを受けてもらうしかないのです。


複数の塾を比較してどこが一番得か(自分の子どもに合っているかは考えない)という損得勘定しか頭にないこの母親は、その後すぐ私の妻に電話して「せっかく入塾してやろうと思っていたのに、ご主人のあの接客態度は何か!」と抗議までしていたのです。


普通なら、電話もしないで授業中突然教室を訪問すれば、迷惑になるのではないかと考えるはずです。それが最低限の常識です。しかし、そう考えるだけの社会性がない。社会から要求される常識的な大人としてのふるまいができず、わがまま勝手な個を突出させる。「あるべき自己」と「わがまま勝手な自己」が一体化してしまい、自分を客観視できないのです。


これは、私が問題だと思う子どもの特徴だったのですが、今では親までがそうなりつつあるようです。いや、親がそうだからこそ、子どもが社会性を欠落させるに至ったのだというのが真相なのかもしれません。キレる子どもの背後にはキレる親がいる可能性が高いのではないでしょうか。


ところが、こういった社会性が欠落している親子でも、等価交換を原則とする契約社会では自立した一人前の顧客であり、このうえない丁重な扱いを受けます。それがあたり前の世の中なのに、たかが塾の教師に後日出直してくださいと言われた。私を誰だと思っているのかしら!お客様、お客様よ!その接客態度は何!というのが母親の言いたかったことでしょう。要するに、消費者として一人前であれば(お金さえ持っていれば)、内面にどんな人格的欠陥を抱えていても、だれからも非難されない社会になったということでしょうか。


私は生徒を「お客様」「お子様」扱いする気はありません。生徒に合わせなければ何事も始まりませんが、生徒に完全に合わせてしまっては知識の伝達すらうまくいかないのです。私からすれば当たり前のことなのですが、「それはお前の勝手な言い分だろう」「消費者主権という言葉を知らないのか」「競争社会の厳しさがわかってない」と反撃されるかもしれません。


しかし、生徒をお客様扱いすることは、教育の中に市場原理を持ち込み、教育を商取引と考えることを意味します。商品交換経済は生徒と教師が対等だという意識を高めます。


しかし、生徒と教師の関係はフラットだという感覚が生徒の中に浸透すればするほど、自分の気に食わないことを言われるのが耐えられない、許せないという感覚が強くなるのは当然ですね。


自分の外部に自分の屁理屈がまったく通用しない世界があるのだということが見えなくなる。要するに自我を絶対化してしまうのです。そして、自分の気に入らない人間は皆「変な人」になります。結果、教師の言うことが客観的な知識に関するものでも受けつけなくなる。学力低下が進行するのは当たり前です。



商品交換の発想では教育は成り立ちません。教育はとりあえず、生徒対教師といった共同体的な上下関係で始めなければなりません。教師に権威が必要なゆえんです。こういった考えを否定して、教育の中に市場原理を取り入れたとき、子どもたちが身に付ける商品価値の中に、人と付き合う力、折り合う力、自分を抑える力、集団に馴染みそれを変えていく力などが入ってくるでしょうか。「知」と両立し、それを支える人間性がなければ、商品価値としては最高の東大を卒業しても、社会では使い物にならないのです。


私は「知」の伝達に重きを置き、生徒の内面に干渉することは極力抑えてきましたが、膨大な量の、一見関係のなさそうに見える知識の背後にあって、それを支え、一定の目的に向けて知識を自分の身体のように使う力のおとろえを生徒の中に見ることが多くなりました。


生まれてから貧困も抑圧も経験せず、深刻な対立や生命の危険にさらされることもなく、市民社会的な自由を満喫し、ヴァーチャルな情報空間を泳いできた子どもたちの「ありのままを肯定」すればどうなるか。学習面に限って言えば、自分の望む内容を、自分が望むレベルとペースでやれなければ不満に思い、いつもイライラする。勉強はウザったいし、疲れるだけだと感じる。最小限の努力すらしなくなる。それでも「勉強してもらいたかったら」それなりの環境を整えて、楽しく分かりやすく教えろと要求してくるにきまっているのです。


もともと子どもが勉強することは、それほど簡単なことではありません。外国語の文法を身に付けたり、数式の意味を理解することは「外部」の価値を受け入れていくことです。子どもたちの「内部」からすれば、一種の屈服です。勉強することは自分を変えていくことを意味しますが、今の子どもたちは自分を変えなければならないとは考えていません。


さらに、こういった商品交換的発想のもっとも大きな落とし穴は、生徒達をすでに学ぶ主体として一人前扱いしていることです。どのような職業や生き方をめざそうとも、共通に身に付けるべき知識や常識や道徳があるはずです。その存在に無理やりにでも気づかせることが子どもたちを社会化するということです。この段階に達していない子どもたちの「個性」を尊重し、何を学びたいか「望むもの」を聞けというのでしょうか。


人間は文化的な動物です。動物のようにもって生まれた遺伝情報によって自然に成長し成体になるわけではありません。子どもの衝動や欲望に合わせて子育てをすれば、文化的な存在としての人間にすることはできません。


従って、教育の本質は、子どもとの衝突を恐れず、子どもが屁理屈をこねだす前から、人として自立できるだけの知識を与え、「しつけ」によって人としての文化的振る舞い、身の処し方を教え込むことです。子どもたちは官僚や評論家が勝手に作り上げた理念的な世界を生きているわけではありません。その子にとってぬきさしならない現実を生きているのです。


さらに、どんなに進んだヨーロッパの資本主義国においても、共同体的な独自の文化や歴史や宗教を排除し、近代的な「個」が経済活動によって無機質につながっている純粋な市民社会など存在しません。ヨーロッパの素晴らしさは独自の文化を持った地方都市にこそあります。


日本の教育の危機は、共同体的発想を市民社会的なものに変えるのが遅れていることにあるではなく、共同体的な文化や振る舞いが価値のない遅れたものだと考えられ軽視されていることにあるのです。国境を越えるグローバルな経済システムに合わせて教育システムを変えなければとあせっているのは、世界広しといえども日本ぐらいではないでしょうか。


この20年間、家庭や地域は大量消費社会・高度情報社会・商品経済の論理・情報メディアに無防備のまま晒されてきました。子どもたちは家庭や地域や学校からよりも情報メディアによって「教育され」、人格までもが情報メディアによって「作られ」ています。


時間をかけて粘り強く一つのことを追求する「考える主体」は消滅し、「消費する主体」が誕生します。人々はお金があれば何でもできる消費社会の便利さをよろこんで受け入れ、それを進歩だとみなします。その結果、人間の価値はどれだけお金を稼いだか、稼げるか、で決められるようになりました。


学力差や能力差が経済的な見返りとしてはねかえってくるがゆえに、成績を上げて子どもの商品価値を高めたいとする親たちの欲望が学校に押し寄せ、共同体的な学校文化を壊し、子どもを点数で一元化する偏差値体制を作り上げたのです。


学校が勝手に偏差値体制なるものを作り上げ、その「序列主義」が社会を汚染したのだと考える評論家がいますが、現実がまったく見えていません。真相は逆なのです。


さらに学校は、「消費する主体」としての子どもたちの意識と行動を、それまでの考え方では捕らえきれなくなった結果、より強力に子供たちを規制しなければならなくなったのです。あるときは偏差値体制の生みの親だと非難され、あるときは親に代わって子どもに言うことを聞かせるようにとせかされ、他方では「人権抑圧だ!」「管理主義だ!」とたたかれる。かくして、学校は社会から孤立することになったのです。私は20年以上にわたって、塾の教師という立場から定点観察をしてきて、このことに気づかざるを得なかったのです。


共同体的社会の中では子ども達は常に他人のことにも気を配り、できない生徒も同じ社会の一員だと考えていました。授業中私語をすればほかの仲間に迷惑をかけることが分かっていたので、教師に注意されると、すみませんと謝っていたものです。また、共同体的な価値観を持っていた昔の親は、自分の子どもを中心におきつつも、ほかの子どもや学校にも配慮していました。幸いにも私の住む地域では、ほとんどの親は常識を心得ており、共同体的文化の良さを身に付けています。


しかし、一般的な傾向として、現在の親は自分の子どもの言っていることを無条件に信じ、成績や利害だけに執着していて、ほかの子や学校、教師のことを考える余裕がないようです。家庭も地域も学校も、グローバルな資本主義経済システムの侵食にあって独自の文化や生活観を喪失し、個の利害だけに関心がある、単なる雑居集団になりつつあります。「学級崩壊」は必然的な成り行きだったのではないでしょうか。


善悪の判断すらついていない子どもたちから共同体の規制力(地域のお祭りや行事で生活や文化を学んだり、祖父母から厳しくたしなめられたりすることなど)を剥ぎ取り、消費社会の中に無防備にさらすことが自由な社会だと勘違いし、いとも簡単に情報メディアに操作される親の生き方にこそ本当の原因と責任があるのです。つまり家庭そのものが大きな曲がり角に来ているのです。私たちは子どもを育てる上で、本当に地域共同体よりも徹底的に市場化された社会がいいものなのか、進んでいるものなのかを問う地点に来ているのではないでしょうか。人間として一人前でないのに、消費者として一人前扱いする社会は、意識できないところで深く病んでいます。


意外に思われるかもしれませんが、今でも良い学校は、私立のトップ校であろうと公立の上位校であろうと、部活や文化祭や生徒会活動に情熱を傾ける共同体的文化を持った学校だと私は確信しています。その中で子どもたちは市民社会的な自由と折り合うすべを、教師からよりもむしろ先輩や仲間から学んでいくのです。


もちろん、そういったコミューナルな学校文化を嫌悪し、受験情報を求めてウェブ上をさまよい、学校の授業よりも予備校が配信する衛星授業やDVDのほうを信頼し、抜け駆け的な勉強をしている生徒もいるでしょう。


いずれにせよ、自立する前の子どもにとって、「個」として出かけ、「個」として学んで帰ってくるような学校がいい学校であるはずはないのです。


さて、『今、賢い親は何をすべきか』という問いに、簡潔に答えを出しましょう。学ぶことが本質的に困難になっている時代に、子どもたちを学びに向かわせようとすれば、家庭=親は、まずは子どもたちを共同体の規制のなかで厳しく育て、早い段階から「消費主体」としての自信を持たせることが危険だと認識できる教養と文化力を持たねばなりません。


その上で、人が生きるということは単に経済的な成功だけを意味しないのだということを本気で教えるべきです。昔の人は子育ての要諦を「少し飢えさせ、少し寒がらせる」と簡潔に表現しています。家庭に文化がなければ、子どもたちは消費社会の荒波に翻弄されて自分を見失い、踏み惑い、後ずさりし、引きこもってしまいます。あるいは、社会に過剰に適応しようとして、精神を病むでしょう。それでも、ライフスタイルを資本の最先端の動きに合わせることを良しとすべきなのでしょうか。